2020年03月22日

後漢 雲台28将1 光武帝劉秀の天下統一を助けた28将 その1 ケ禹、呉漢、賈復、耿弇、寇恂、岑彭、馮異

序列名前特記事項
1ケ禹太傅、高密侯。南陽出身で長安遊学中に劉秀と知り合い、河北遠征に出た劉秀を追った。各地を転戦、新末の混乱する関中へ入るなど、常に劉秀の力であり続けた。
2呉漢大司馬、広平侯。南陽出身。常に冷静沈着、朝廷では謹厳に仕えた。河北遠征中に王朗は偽物で皆劉秀に付いていると嘘を吹聴し、空気を変えることに成功する。漁陽太守から派遣され、劉秀配下に。初期から各地で奮戦。秦豊や公孫述討伐などで活躍。南陽や蜀で部下が占領地で殺人や略奪を行い、反乱の芽を撒いてもいる。
3賈復左将軍、膠東侯。南陽出身。劉秀の河北転戦の際に、劉嘉から劉秀の下へ。王朗討伐や、呉漢の軍が南陽で略奪したことに怒って背いたケ秦討伐などで活躍。左将軍に上ったが、左右将軍の廃止に伴い辞任。
4耿弇建威大将軍、好畤侯。扶風県出身。王朗が背いた際に劉秀の下を訪れ、父や漁陽太守の彭寵を動かして劉秀の窮地を救った。斉の平定など、46の軍を破り、城を屠ること300、挫折なしと史書は記す。
5寇恂執金吾、雍奴侯。上谷の名家出身。耿弇の父耿況に仕え、劉秀に付くことを主張。耿弇と共に劉秀に仕え、河北からの補給物資を送って全軍を支えた。朱鮪らが洛陽を攻めた際には馮異と共に破る活躍も見せる。統一前に死去。
6岑彭征南大将軍、舞陽侯。南陽出身。新の役人として、上司が戦死した後の宛を守り、陥落後は劉縯に命を救われる。劉縯誅殺後は劉玄に仕えるが、潁川太守として任地に赴く際に劉秀につく。河北や南陽で多くの戦果を上げるが、公孫述を撃つ途中で暗殺され、統一目前で死去。
7馮異征西大将軍、陽夏侯。潁川出身。読書を好み、春秋をよく読んだ。劉秀の潁川攻略時に捕虜となり、劉秀と面会して彼に降ることを決める。河北転戦では劉秀を支え続けた。功を争うことはなく、同僚からの信望も厚かった。洛陽の朱鮪攻撃、赤眉の跋扈する長安への派遣など各地で活躍。隗囂の子の隗純を攻撃する途中で病没。



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2020年03月23日

後漢 雲台28将2 光武帝劉秀の天下統一を助けた28将 その2 朱祜、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純

序列名前特記事項
8朱祜建義大将軍、鬲侯。安帝の諱を避けるため、朱祐とされることもある。南陽の宛出身。幼くして父が死んだため、劉氏に育てられたことで劉縯・劉秀兄弟と早い時期から親しんだ。河北の戦いや秦豊攻撃などに参加。儒教を尊び、戦の時には城や邑を得ることを優先して首を得ることには熱心ではなかった。
9祭遵征虜将軍、潁陽侯。潁川の貧しい家に生まれ、経書を好んだ。昆陽の戦いの後、何度か面談した劉秀に気に入られ、幕下に加えられる。河北転戦時に劉秀一族の子が法を犯したため殴り殺している。劉秀は許し、軍の監察を司らせた。彭寵討伐、隴西の隗囂攻撃などに参加。33年に陣没。
10景丹驃騎大将軍、櫟陽侯。馮翊櫟陽県出身。新で上谷郡の次官となる。23年に耿弇の父耿況と共に劉秀に降り、河北平定に功績を上げる。26年、反乱軍との戦いの中、病没する。
11蓋延虎牙大将軍、安平侯。漁陽郡出身。8尺(184cm)の巨漢で怪力の持ち主。河北で王朗が叛くと、呉漢と共に謀って漁陽を劉秀に味方させる。河北を転戦、後には南方作戦に従事。来歙の指揮下で蜀を攻撃するが、来歙が暗殺されたこともあり、勝てないまま病を得て帰国している。しばしば敵中に深入りし、劉秀に叱責されている。
12銚期衛尉、安成侯。潁川郡出身。8尺2寸(190cm)の巨漢。馮異に推挙される。ケ禹の属官として河北を転戦、銅馬集団を降伏させるなど、農民反乱集団の鎮圧に従事。その後は河北を鎮撫し、劉秀即位後は衛尉となった。信義に厚く、略奪を許さず、君主を敬愛しながらも直諌した。34年没。
13耿純東郡太守、東光侯。鉅鹿出身。父は定陶の太守で、新が滅びると劉玄の下に加わる。劉秀の河北遠征の際に謁見し、劉秀の軍が規律正しいことを見て従うことを決める。河北で苦しむ劉秀に合流。鉅鹿を抜けない時に、直接邯鄲を衝くことを進言する。その後は農民反乱集団の鎮圧に活躍。即位を肯んじない劉秀を説得したのはこの耿純。民に慕われた。37年没。



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2020年03月24日

後漢 雲台28将3 光武帝劉秀の天下統一を助けた28将 その3 臧宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂









序列名前特記事項
14臧宮城門校尉、朗陵侯。潁川出身。若くして県の亭長となる。新への反乱が続発すると、下江の兵に合流、その縁で劉秀に従うようになる。河北を転戦。公孫述討伐にも参加する。
15馬武捕虜将軍、楊虚侯。南陽郡出身。反王莽の蜂起に参加、緑林を経て劉氏の下へ。昆陽で劉秀と共に戦う。その後、謝躬の下で邯鄲を攻撃。謝躬が誅殺されると劉秀の下に移る。賊との戦いでは、攻撃は先頭に立ち、敗北すれば殿を務めた。劉永、隗囂らとの戦いに活躍。明帝にも仕え、西羌を破っている。
16劉隆驃騎将軍、慎侯。武帝の異母兄劉発に連なる血統。父の劉礼は王莽に反乱を起こして処刑されたが、劉隆は7歳未満だったため許された。反乱が起こると劉玄から騎都尉に任じられるが、劉秀が河内にいると聞くと地位を捨てて河内へ向かう。洛陽攻撃に参加、後には荊州で屯田を行う。
17馬成中山太守、全椒侯。南陽出身。劉秀が潁川を押さえると下級役人に。劉秀が河北に向かうと職を捨てて合流、警備に当たった。淮南の李憲を斬る活躍を見せる。後には北方で長城の防衛ラインを修復している。
18王梁河南尹、阜成侯。漁陽郡出身。呉漢らと共に彭寵から派遣され劉秀に仕える。洛陽の劉玄軍を防いだり、劉永の残党狩りなどに尽力する。劉秀が即位すると、讖緯に基づいて県令だった王梁を大司空に抜擢している。運河工事も拝命したが、失敗、辞職を願い出るが許されている。
19陳俊琅邪太守、祝阿侯。南陽出身。南陽郡の吏となり、劉玄が即位すると劉嘉の下につく。劉秀の河北遠征の際に推挙されて移籍。農民反乱の討伐、斉平定などに従事、以後東方での反乱鎮圧に活躍する。
20杜茂驃騎大将軍参、蘧侯。南陽出身。河北遠征の際に劉秀に付く。王朗との戦いを始め、農民反乱の鎮圧、劉永討伐などに活躍。匈奴との備えにも任じられ、盧芳とも何度も戦う。なお、字は「諸公」なので、同時代の人はさぞいろいろ混乱したことであろう。



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2020年03月25日

後漢 雲台28将4 光武帝劉秀の天下統一を助けた28将 その4 傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植

序列名前特記事項
21傅俊積弩将軍、昆陽侯。潁川出身。劉秀が襄城を攻めた際に迎え入れるが、この際に母や弟は襄城の人々に殺された。昆陽の戦いなどの後、一度喪に服し、劉秀の河北遠征の際に邯鄲で合流。劉秀が即位すると侍中となり、秦豊討伐や揚州平定に従事。31年に死去。
22堅鐔左曹、合肥侯。潁川出身。新で下級役人となる。劉秀の河北平定時に推挙され、実務能力を買われて事務を受け持つ他、農民反乱集団の鎮圧にも活躍。洛陽の朱鮪攻撃、南陽平定にも加わる。ケ奉討伐の際には敵中に孤立するも、野草を食べて飢えを凌ぎ、1年間耐えたこともある。
23王覇上谷太守、淮陵侯。潁川出身。新では獄卒(刑務所の役人)。劉秀が潁陽に至った際に賓客と共に参加。昆陽の戦いを戦い抜く。その後は郷里に帰るが、再び劉秀が潁陽に来ると参加して河北での戦いに参加、多くの者が劉秀の下を去る中、最後まで留まり続けて劉秀から「疾風に勁草を知る」と言われている。王朗を斬ったのは王覇。馬武と共に劉永の子の劉紆を討伐、その後は盧芳や匈奴対応で20年余りを安定で過ごす。
24任光信都太守、阿陵侯。南陽出身。昆陽の戦いで劉秀と共に新軍を破る。劉玄から信都太守に任じられ、劉秀が河北にやってくると劉秀を迎え入れ、王朗に勝利するきっかけを作った。29年冬、死去。
25李忠豫章太守、中水侯。現在の山東省にあたる東莱郡出身。前漢末に高密国の郎となり、新では信都郡の尉となる。任光らと共に劉秀を迎え、鉅鹿での戦いなどに参加する。30年からは丹陽の太守となり、領域内の安定化に努め、墾田を拡大し、多くの流民を定住させた。
26萬脩右将軍、槐里侯。扶風茂陵県出身。劉玄に信都郡の令に任じられ、任光らとともに劉秀の下へ。河北平定、朱鮪の籠る洛陽攻撃などに参加。南陽の平定の途上、宛で孤立し、病没。
27邳彤太常、霊寿侯。信都郡出身。新では和成郡の太守だった。劉秀が河北に至ると下曲陽で迎え、帰順する。河北での不利な状況に、一度長安に帰ったらどうかとの提案が行われた際、戻っては河北は失われ、長安は動揺し、威厳も損なうと反対、劉秀に河北に留まることを決意させる。信都と共に王朗に付かずに節を通した。大司空代行をはじめ、太常、少府などを歴任。30年に死去。
28劉植驍騎将軍、昌城侯。鉅鹿出身。王朗が河北で挙兵した際、薊から逃れてきた劉秀を迎え入れる。真定王劉揚を引き入れることに成功、河北平定への大きな転換点を作り出した。26年、賊との戦いの中で戦死した。



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2020年03月26日

後漢 功臣粛清のなかった後漢 功臣には広大な土地も顕官も与えないことで、国内の安定化と功臣粛清を防いだ劉秀

 どのような選び方をしても不平等に感じる人がでるのは避けられないにしても、来歙がいないのは少々腑に落ちないものがありますね。馬援は建国時の英雄というわけではないでしょうし、明帝としては彼が舅に当たるため入れるのを躊躇したということもあるのでしょう。実際、なぜ伏波将軍馬援が入っていないのかという質問はあり、明帝は笑って答えなかった、ということです。

 特記事項の最初に記した封爵を見ても、どこにも王に封じられた者がいませんね。これが前漢成立時との極めて大きな違いです。功臣たちは最大でも賈復が6県に封じられたに過ぎません。河北以来常に劉秀に従い各地を転戦したケ禹ですら、4県です。また、朝廷でも顕官には任じられていません。

 彼らが広大な土地を賜らなかったり、朝廷で強大な権力を握ることがなかったことは、後漢成立後の功臣粛清がなかったことに結びつきます。前漢では王に封じられた者は広大な土地と強力な権力を、王とはされなかった者でも封じられた土地から得られる多くの資金も背景に朝廷で大きな力を持ちました。韓信、英布、彭越、韓王信たちが粛清されていき、蕭何ですら一度は誅殺されかかったのは、皇帝すら脅かしかねない権力を持っていたからに他なりません。

 劉秀の論功行賞は、部下の粛清をもたらすことのない、優れたものだったと言えるでしょう。

 38年、臣下たちが「昔は肉刑が厳しかったため、人々は法律を恐れていました。ところが、今は法律が軽いため、悪人が跡を絶ちません。禁令を増やしてその源を断つべきです」と上書します。よくある厳罰主義ですね。

 その中心に居たのは、かつて新末の混乱の際に竇融を支えた梁統です。その論の中には、「人を殺した者ですら死刑を減じられたことで殺人が増えた」とあります。確かに、殺人に対して死刑は私は妥当であるとは思うのではありますが、死刑にならないなら簡単に人を殺す者がでるというのはまた誤りであると思います。


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