2020年03月16日

後漢 隗囂の死 漢軍が匈奴と結んだ盧芳と戦っている間に隗囂は困窮のうちに死に、後を継いだ隗純は翌34年に攻撃を受け降伏する

 年が明けて33年、劉秀は隗囂方面はある程度緊急性が去ったと判断したのか、隗囂を棚上げして盧芳攻撃に向かいます。

 盧芳は安定の人で、新に人々が劉氏を慕うところを見て、自らを武帝の曾孫の劉文伯であると自称します。巫蠱の乱で死んだ衛太子の弟が北西に逃れてひっそりと結婚していた、と主張したのです。劉氏ブランドはかなりの力を持ったようで、新末期には羌や匈奴の軍も引き入れて西方に地歩を占めました。更始帝劉玄は長安に入ると、盧芳を騎都尉に任じて安定以西を鎮撫させています。

 劉玄が滅ぶと、匈奴は「匈奴は漢と兄弟と約束した」と言って、数千騎を派遣して盧芳を迎え入れて漢の皇帝としました。なんてことはない、神輿や傀儡にしようというのですね。ただ、盧芳が匈奴と結んでいることから分かるように、北方の辺境から長安を窺っているに過ぎませんから、劉秀にとっては喫緊の課題ではありません。

 呉漢や杜戊らは盧芳を攻撃しましたが、勝てませんでした。

 そうこうしているうちに、隗囂の側で事態が大きく動きます。隗囂が病死し、子の純が即位したのです。隗囂の末年は、病んだことに加えて飢えにも苦しみ、大豆混じりの米や乾飯で飢えを凌いだという大変なものでした。

 34年、劉秀は来歙、耿弇、蓋延らを送って隗純を攻撃させます。これを受けて、公孫述は隗純を助けようと援軍を送りこみますが、この軍は馮異に敗れます。隗純の軍は隗囂の死で動揺していたこともあり、一戦して敗れ、降伏しました。こうして隴西もまた漢に飲み込まれたのでした。盧芳が辺境にとどまっていることを考えれば、事実上天下統一に残っているのは蜀のみということになります。

 35年、馬援は隴西太守に任じられます。涼州方面では何度も盧芳と結んだ匈奴が侵入しており、来歙が主将、馬援が副将として何度も匈奴を防いでいました。こうした経緯もあり、来歙は馬援でなければこれを防ぐことはできないと奏上、認められたのです。

 馬援は歩兵、騎兵合わせて3000を率い、臨洮(りんとう)で先零羌を破って数百の首を得、ウマ、ヒツジ、ウシなど1万余りを得ます。これはかなりの大勝だったようで、塞を守る羌族が8000人余りも降伏してきたそうです。


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2020年03月18日

後漢 羌族の撃退 馬援は羌族を攻撃して敗退させると、逃げる羌族を執拗に追い、山頂に追い詰めてこれを破る

 略奪を行う羌族に対しては揚武将軍馬成とともに果敢に攻撃して後退させ、さらに間道を伝って攻撃します。羌族は驚き快走して谷に籠もりますが、馬援らはこれを追いかけたので、羌族は山に逃げます。馬援は自分も山に向かいながら、数百からなる部隊を背後に回り込ませ、夜陰に乗じて火を放つと共に、鼓を打って大軍が攻めてきてるように思い込ませました。乱れたところに馬援らの本体が突入します。羌は地の利を活かして矢を射込み、馬援の脛を貫通させるという抵抗は示しましたが、大敗して千を数える死者を出し、逃げ去りました。馬援は兵が少ないことから、穀物や家畜を鹵獲し、帰国しています。

 朝廷では西方は何度も異民族の襲撃を受けるが、道が遠くて救援もままならないとして放棄を唱える者もありましたが、馬援は上奏して西方には肥沃な土壌がが広がり、多くの固い城があるので、羌族を住まわせれば害をなすことはなくなるだろう、と訴えます。この提言は受け入れられ、多くの異民族が服することになります。中には公孫述と結んで漢を攻撃していた部族からの降伏もありました。馬援は彼らの王をそのまま遺留するよう劉秀に訴え、認められました。

 こうして西方の脅威は多く取り除かれたので、劉秀は揚武将軍馬成の軍を解散させています。

 37年には武都の参狼羌が塞外の部族と共に侵入し、略奪を行います。馬援は4000を率いてこれを攻撃したため、羌は山の上に陣取りました。これに対して馬援は水源と草原を押さえると、守りを固めて戦おうとしませんでした。腹が減っては戦はできぬの金言がある通り、困窮した羌は塞外へ脱出しました。また、戦いの結果、多くの部族が漢に降伏し、その人数は万余に達したそうです。後漢書は、「於是隴右清静(こうして隴右は静かになった)」と称えています。

 山の上に陣取った敵に対しては、麓を囲んで補給を断つのは勝利の鉄則です。一方で、高所に陣取れば高さを利用して防御も攻撃も有利になるので、状況次第で作戦を変えなければなりません。後漢のすぐ後の時代で、同じような議論を見ることになるでしょう。

 西方の憂いがなくなったので、唯一蜀が残ったことになります。


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2020年03月19日

後漢 蜀攻撃開始 漢軍は数手に分かれて蜀へ侵入、公孫述は暗殺作戦を実行して岑彭と来歙を刺殺させるが、漢軍の勢いは止まらない

 同じく37年、遂に蜀への総攻撃が開始されます。劉秀は自ら軍を率いて長安に入ると、岑彭、来歙、臧宮らを蜀に発進させました。彼らは天険を冒して蜀へ向かいます。また、同年12月には呉漢が船で長江を遡って蜀を目指しました。

 岑彭の軍は規律正しく、略奪は許しませんでした。そのため、その軍の進路に住む人々は酒や牛を奉じて迎えましたが、岑彭は「我々は蜀の人々が長らく苦しめられていたことを哀れに思い、罪ある者を除きに来たのである」と言って受け取ることはありませんでした。そのため、各地で降伏する者が続出します。

 慰撫だけが岑彭の武器ではありません。公孫述の送った防衛軍と遭遇すると、臧宮らに命じて蜀軍を防がせている間に、軍を割いて江州に返り、川を遡って敵の備えの無いところに出ます。そして現地の守将を破り、深夜の行軍で倍の距離を進み、延岑の背後に現れたのです。兵士たちは恐れおののき、公孫樹は驚いて「神か」と言うほどの離れ業でした。

 ここで公孫述が頼ったのは、間諜を使って司令官の暗殺を行わせることです。

 岑彭は野営した地名が彭亡(続漢書には彭亡聚とある)であることを嫌い、陣を移したいと考えていたそうです。この時、刺客が逃亡奴隷と言って偽って降り、岑彭を刺殺してしまいました。

 また、来歙は武都の下弁を攻撃、元は隗囂に仕えていた王元や環安を破りましたが、環安の放った刺客に刺されてしまいます。致命傷でした。瀕死の来歙は蓋延を呼んで後を託そうとしたところ、蓋延が涙を流しているのを見て、「女子供のように泣くようなことがあるか」と叱りつけ、ようやく後事を託して亡くなりました。

 来歙、岑彭は暗殺作戦の犠牲となりましが、それだけでは漢の大軍を防ぐことはできませんでした。呉漢と臧宮が公孫述の弟の公孫恢や娘婿の史興を敗死させるなど、漢軍は成家軍に対して各地で勝利します。劉秀は自分の勢力下に入った土地で、従来と同じような奴婢の解放は恩赦を与え、鎮撫に努めました。



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2020年03月20日

後漢 公孫述の死 劉秀は降伏勧告を送るが公孫述は拒否、「虜は城下に死ぬ」との占いを信じて城下に戦い戦死する

 劉秀は公孫述に書簡を送り、「今、自ら降伏すれば家族を含め罪に問うことはしない。来歙、岑彭のことがあったからといって、疑うことのないように。もし迷い、従わないのであれば、飢えたトラの前に肉を差し出すのと同様、命はない。兵士は疲れ、故郷に帰りたがっている。詔書を何度も送ることはしない。嘘は言わぬ」と最後通牒を突きつけます。

 公孫述はしかし、降伏を肯んじようとはしませんでした。

 9月、漢の軍勢は成都に押し寄せます。公孫述は延岑に、「どうすればよいか」と問います。延岑は「男児たるもの、まさに死中にあっても生きる道を探すべきでしょう(男兒當死中求生)。ただただ座して困窮しているものではありません。財物など、得るのは簡単です。惜しんではなりません」と応えました。

 公孫述は財を散じて決死の兵士5000を集めます。そして、延岑に呉漢を攻撃させると見せかけて背後から奇襲を仕掛け、呉漢を散々に破りました。

 11月、今度は臧宮の軍が成都に現れました。公孫述が占いをさせたところ、「虜は城下に死ぬ」と出ました。虜とは漢軍を指すと考えた公孫述は喜び、延岑に城を任せると自ら数万の兵を率いて漢軍を攻撃します。朝から正午までに3度戦い、3度勝利を得る、という獅子奮迅の働きでした。

 しかし、多勢に無勢、食事をとる暇もない成家軍は疲弊します。漢軍が勇敢な兵士を募って突撃させた結果、公孫述の軍は乱れ、公孫述も胸を刺されて落馬しました。

 公孫述は延岑に兵を預け、城内に入りました。漢軍もまた、成都城内への侵入に成功します。城内でも戦いは続きましたが、後はもう時間の問題でした。同日夜、公孫述は胸を刺された傷がもとで死にます。「虜は城下に死ぬ」との予言は、こうしてみると公孫述のことだったのでしょう。

 翌日、延岑は呉漢に降りました。

 漢軍は公孫述の妻子やその一族を誅殺しました。また、この時に延岑も一族を滅ぼされています。降伏勧告を受け入れなかったことは随分と高く付きましたね。

 しかし、戦いの最も凄惨なシーンはまだ終わっていませんでした。


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2020年03月21日

後漢 成都略奪 勝利に酔った兵士たちは成都場内になだれ込み、略奪や放火、殺人を繰り広げる 劉秀は怒り、呉漢を叱責

 勝利に酔った漢の兵士たちは成都城内に雪崩込み、略奪、放火、殺人など乱暴狼藉を繰り広げたのです。戦闘終結後の暴力の発露により、城内だけで1万人以上が殺されたと伝えられます。

 成都の惨状を聞いた劉秀は怒り、呉漢を譴責するとともに副将の劉尚に対して「城は降って役人は服し、幼児や老母の人口は万をもって数えるというのに、兵を放ち、火を縦(はな)ったと聞く。これを聞き、痛ましく、涙がでるほど痛ましい。劉尚よ、お前は宗室の子孫で、かつては役人も経たと言うに、なぜこんなことを行わせたのか。多くの将を斬り、人を憐れむ義を失ってしまった」との非難の手紙を送っています。

 この暴行を蜀の人々は許すことができず、やがて42年2月に反乱を起こすことにつながっていきます。

 隗囂も公孫述も、才幹という点では優れた人物だったようですが、不利になっても降伏しなかったためにこのような結末を迎えることになりました。才能の浪費は嘆かわしいものですが、男子一代の野心に身を焦がす者としては正しいあり方なのかも知れません。

 盧芳のことは残っているとしても、それは最早辺境の些事に過ぎず、統一は完成したと言って良いでしょう。

 37年4月に呉漢らが蜀から戻ったことを受け、論功行賞が行われます。増封された者365名、外戚で封じられた者45名になりました。また、戦乱は止んだことから、左将軍、右将軍を廃止しています。特筆すべきことに、建国の功臣の多くが朝廷の重役を与えられませんでした。これもまた、劉秀の優れたバランス感覚を示すものと言えるでしょう。

 後に明帝は洛陽南宮の雲台に建国に功績のあった28人の肖像画を描かせます。このことから、彼らを雲台28将と呼び習わします。折角の機会ですので、彼らについてまとめておきます。


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