2020年03月11日

後漢 竇融の帰順 隴西の隗囂に見切りをつけた竇融、劉秀に帰順することを申し出る

 劉秀は隗囂と公孫述は自分に服しないことを知りましたが、長く兵乱が続いてきたなかで、両者は共に辺境に拠って漢を左右する力はないと判断し、両名の討伐を考えないとしました。

 事態を変えたのは、不幸な出来事の積み重なりでした。隗囂が劉秀へ送った使者の周游が馮異の陣に至った時、仇敵に殺されてしまったのです。劉秀は詫びとして衛尉の銚期を遣わして珍宝を贈ろうとしたのですが、その途中に鄭で宝物が盗まれてしまいます。

 劉秀は「私は隗囂とはうまくいかないようになっているのだろう。使いが来ては殺され、贈り物をしようとすれば途中で失われる」と嘆きました。その嘆きが正しかったことは、すぐに証明されます。

 5月、河西の竇融なる者が、劉秀に書簡を送って帰順を申し出ます。竇融の一族については後にも触れることになりますので、ここで竇融を紹介しておきましょう。

 竇融は、その7代先祖の姉が宣帝の后に遡る出自で、代々扶風に住んできました。竇融は早くに父を亡くした苦労人で、漢を簒奪した新に出仕して反乱を起こした?義を伐って建武侯に封じられ、妹は大司空の王邑の小妻(正妻ではない妻)となるなど地歩を固めていきます。王莽一族と親しいながら遊侠とも付き合い、しかも家では年長者に仕え弟を養うなど、清濁併せ呑む性格でした。

 新末の動乱に際しては太師王匡の指揮下で反乱鎮圧に向かい、昆陽で劉秀相手に敗北して長安に戻っています。王莽が滅ぶと、更始帝劉玄の将趙萌に降っていました。

 竇融は趙萌の推薦もあって鉅鹿の太守に任じられますが、東方がまだ落ち着いていないことから関中に留まることを望みます。関中から東に出ず、かつ安全を図れるのはどこでしょうか。幸い、竇融にはそれを考えるだけの十分な情報がありました。即ち、かつて彼の高祖父は張掖太守に、父のいとこは護羌校尉に、いとこは武威太守となるなど、河西のことをよく知っていたのです。


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2020年03月12日

後漢 隴西との全面戦争 公孫述が南郡に侵入したことを受けて劉秀は蜀攻撃を図ったが、隗囂は自分への攻撃と思い、両国は戦争に突入する

 そこで、竇融は兄弟たちに「天下は未だどう転ぶか分かったものではない。この河西の地は豊かで、河があるため守りやすい。張掖の精兵は万を数え、ことが起これば河の渡しを破壊すれば敵は責められない。この場所こそ、一族安住の地であろう」と言い、皆を納得させました。竇融は河西にでることを願い、張掖属国の都尉に任じられました。

 西域では異民族との戦いに活躍します。なお、同じ郡出身で西域で共に活動していた中に、梁統がいます。梁統についてはまた後に眺めることになりますが、後の歴史を知る者には、歴史の妙があることを感じさせるでしょう。

 劉秀の即位を聞いた竇融はその幕下に加わりたいと望みますが、河西から河北は遠く、果たせずにいるうちに隗囂が劉玄から離れて独立し、河西は隗囂の下に付きます。竇融もまた、不本意ながらも隗囂に従ことになりました。

 29年、遂に機会を得た竇融は劉秀に書簡を送って帰順を申し出ます。

 劉秀はかねてから河西が豊かで、隴西や蜀に通じていると聞いていたため、趨勢を決する人物がやってきたと歓迎します。竇融の知識は、漢軍の隴西、蜀攻撃を大きく救けることになります。

 30年、公孫述が南郡に侵入します。劉秀は改めて隗囂に公孫述を攻撃するように要請しました。しかし、隗囂は蜀への入り口を扼す白関は堅固で桟道は破壊されていると理由をつけて拒否しました。

 そこで、劉秀は自ら長安へ進出し、建威大将軍の耿弇ら7将軍を蜀に派遣しようとしました。しかし、この動きを自分への攻撃と思い込んだ隗囂は道を塞ぐと、璽書を携えて諭そうとした来歙を殺そうとします。全く同じような展開を、三国時代を扱うところで見ることになるでしょう。

 来歙はなんとか逃げ帰り、ここに劉秀と隗囂は全面戦争に突入したのでした。

 まず劉秀麾下の将軍たちは隴西に入って隗囂を攻撃しますが、天険に拠る隗囂は強く、いずれも敗北して退きます。今度は隗囂が関中へ攻め入りますが、今度は馮異らが隗囂の軍を打ち破りました。


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2020年03月13日

後漢 隗囂の申し開き 隗囂は戦いは驚いた部下が勝手に動いた偶発的なものだと釈明するが、劉秀は最後通牒を突きつける

 隗囂は「兵士たちは突然大軍がやってきたことに驚いて自分たちの命を守ろうと戦いになってしまい、臣下の囂はこれを止めることができませんでした。ですから、攻撃の好機ではありましたが、自ら兵を引いたのです。今や、私のことはひとえにお国のお心ひとつに罹っております。死を賜れば死を、刑を加えるのなら刑を受けます。もし恩を受ければ、功績をあげます」と詫び状を送りました。

 劉秀の側近はその手紙が傲慢だとして質子の恂を誅殺するよう進言します。しかし、劉秀は偲びず、来歙を派遣して書簡を届けました。大意は以下の通りです。

 「昔、柴武将軍は韓王信に書を送り、陛下は寛仁な方で諸侯が背いても帰順すれば位を戻し、誅殺することは致しませんと伝えた。隗囂は道理をわきまえた者であるからこうして書を送る。不遜に聞こえるかも知れないが、遠回しに伝えればかえって意図が通じないゆえ、はっきり伝える。今後手出しをせず、隗恂の弟もまた洛陽に送るのであれば、爵祿はそのままとする。私も40歳になろうとし、軍の中に身を置くこと10年にもなる。もう上辺だけの言葉には飽き飽きした(「淫語虚辞に厭きたり」『後漢書』)。従う気がないのであれば、連絡は不要である」

 隗囂のらりくらりと劉秀を交わし続けることは不可能と知り、漢との離反を決意して公孫述に使者を送って誼を通じました。

 同年9月には日食が起こります。これを受け、10月に「私は徳が薄く、知恵も足りぬ。賊が害をなし、強きも弱きも相争い、人民は住む所を失う。『詩』に、日月が凶兆を示せば其の行いを正せ、という。自分の咎を思うと心に思うことがある。公卿に勅命を下し、賢良と方正を1人ずつ挙げさせよう。百官は封事(密封して天子に出す書)を出すように。隠してはならない。役人たちは職に励み、方に従うこと」と詔を出したことを皮切りに、11月には新の時代に役人で奴隷にされた者のうち、漢の法制では罪に当たらない者を解放させ、12月には10分の1税を取りやめて30分の1税を復活させて人民の負担を軽減しています。


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2020年03月14日

後漢 劉秀の余裕 隗囂、劉秀は公孫述との戦いを控えながら、減税や刑の執行取りやめなどの恤民政策を行い、地方の常備軍も廃止する

 前漢の落ち着いた時代には30分の1税だったのが、戦乱で資金不足に陥り、税率が上がっていたのです。劉秀陣営も遠征を繰り返してはいましたが、彼らは屯田を行っていたため、糧食が確保できるようになっていたのです。
更に、郡の都尉を罷免し、そして列侯を国に赴かせました。思うに、郡に軍の指揮官がいれば地方が不安定になるので、先に都尉を罷免させたのではないでしょうか。

 年が明けて31年の正月、死刑に相当する者以外は取り調べを止め、刑徒を解放する詔を出します。軽微な罪を犯して逃亡中のものは書を出して許すようにせよ、ということも付言していますので、流民が社会を不安定にさせることを防ぐ意味合いが強いのでしょうね。軽犯罪者が大量に解き放たれるのは、それはそれで困るような気もしますが。

 また、3月には地方の常備軍を廃止させます。戦車や軍艦の乗組員も辞めさせていますので、都尉廃止と同じく郡の反乱を防止するためのものですね。ただ、地方で反乱が起こってしまった場合の備えをどうするかは考えなければなりません。このバランスをどう取るのかは、地域を問わず、巨大な帝国につきまとう問題のようです。

 さて、公孫述は隗囂を朔寧王に封じ、援軍を送りました。こうして天下の行方は劉秀対公孫述との状況になったのです。

 秋、隗囂は歩兵騎兵合わせて3万の軍を率いて安定を襲い、また別働隊も派遣して2方面で攻勢にでます。しかし、馮異らが防いだため、利を得ることなく引き上げるしかありませんでした。

 32年には劉秀もまた天水に向かいます。しかし、戦線が膠着したため、劉秀は太中大夫の王遵を呼び寄せます。

 王遵はかつて隗囂と共に挙兵した人物です。しかし、早くから劉秀を優れた人物と認めて帰順を考えていました。そして何度も隗囂に降ることを勧めたのですが、容れられなかったために隗囂の下を去ったのでした。


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2020年03月15日

後漢 隗囂の抵抗 隗囂は降伏を拒否して西城に立て籠もる 呉漢は城を囲むも、蜀からの援軍に挟撃されて敗退、周辺は再び隗囂の勢力下に

 王遵は隗囂軍の将で旧知の牛邯が漢に降りたいと願っていることを知り、長文の書を送って帰順を呼び掛けます。悩んだ末に牛邯は降ることを決意しました。彼と共に大将13人、県16、10余万の兵が降ったということですので、かなりの重鎮が降伏したことになります。

 また、竇融は五郡の太守、羌の捕虜、異国の歩兵騎兵合わせて数万を率いて参戦しています。

 隗囂は妻子とともに天水の西方に位置する西城へ逃れ、王元は蜀に入って救いを求めました。

 劉秀は「もし手を束ねて自ら来るのであれば、親子ともに無事であることを保証する。高祖(劉邦)が田横に漢に降るのなら田横は王に、その臣下は侯にしようと約束したのと同じである。しかし、もし黥布(英布)のようになりたいと考えるのであれば好きにするが良い」と書を送ります。

 英布といえば、楚漢戦争で漢の勝利に大きく貢献して王に封じられましたが、功臣たちが粛清されていくところを見て自らもまた背き、敗死した人物でしたね。英傑ではありながら終わりを全うしなかった彼の名を出すことで脅しをかけたわけですが、隗囂は降伏しませんでした。

 劉秀は質子の隗恂を殺し、呉漢と岑彭とに西城を囲ませ、自らは東へ帰りました。

 西城は堅く守り、抜けません。そうこうしているうちに、公孫述の派遣した援軍5000が外から漢軍を攻撃します。しかも、この軍は死角から接近して高地に上り、下る勢いで漢軍を攻撃したものですから、包囲は破られ、援軍は城に入りました。

 後漢書の隗囂公孫述列伝は、「会(たまた)ま呉漢等食尽きて退き去る。是に於いて安定、北地、天水、隴西は復た反して囂の為にす」(後漢書3)と記します。おそらくは呉漢を慮って食料事情で撤退したとしていますが、安定などが漢から離脱して隗囂の下についたとあるところを見ると、それなりに酷い敗北を喫したのではないかと思います。ただ、隗囂は牛邯らの寝返りもあり、弱体化したことは間違いありません。


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