2020年03月06日

後漢 岑彭の南征 荊州(楚)で自立した秦豊に対し、劉秀は兄劉縯に命を救われたことから劉秀に従うことになった岑彭を送る

 南方に目を転じましょう。26年の7月には征南大将軍岑彭が楚を攻撃します。

 岑彭は劉縯が宛を攻めた際、防御側として勇戦して城を守り続けましたが、食料が尽きて遂に降った人物でしたね。誅殺を唱える者もいましたが、劉縯により許されていたのでした。劉縯が誅殺された後は朱鮪の下に付けられて功績をあげています。劉玄からは潁川の太守に任じられ、任地に赴こうとしたのですが、劉秀が周辺一帯を押さえた際に降っています。その際、「自分は大司徒劉縯に命を助けられましたが、恩を報いることができないまま大司徒は禍難に遭われ、心残りに思っておりました。簫王とこうしてお会いしたからには、一身をもってお仕え致します」と言い、河北平定などに従ってきました。劉秀は即位すると、岑彭を廷尉に任じ、大将軍を兼ねさせています。

 これより前、洛陽を守っていた朱鮪を降伏させる際、朱鮪は劉玄に劉縯誅殺を勧めたこともあって降伏をためらっていたのですが、岑彭は交渉中に単騎乗り込むことで朱鮪を信用させ、降伏を承諾させるという功績も挙げていました。

 この岑彭が討伐に向かった楚では、秦豊が独立して天子を称していました。この秦豊は若くして長安に留学し、律令を学んで県の吏となっていたのが、天下が乱れると宜城や新野などを得て万をもって数える軍を揃えていました。しかし、戦いなれていなかったのか、岑彭は10余城を落として秦豊の戦力を大きく削ぐことに成功します。

 劉秀は更に呉漢を南方へ派遣します。

 呉漢は南陽の貧しい家の出身で、県に勤めて亭長となっていました。ところが、賓客が法律を犯したことから逃亡し、漁陽に入っていました。その地でウマを販売して資金を貯め、商売の中で燕や薊を巡って人脈を広げていました。天下が乱れると、この時の縁で出仕していました。呉漢は劉秀についての情報を得て、優れた人物だと判断、魚陽の太守彭寵に偽の檄文まで作って劉秀の下へ赴きました。

 彼は純朴で、当意即妙とは遠かったのですが、劉秀からも周囲の者からも信用され、河北転戦の際には各地で活躍しています。楚へ派遣される直前には東方の賊を撃ち、勝利をあげて10余万の兵を降伏させています。


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2020年03月07日

後漢 馬援 戦国時代趙の名将趙奢の子孫の馬援は率先垂範で周囲から慕われるリーダー資質にあふれる人物だった

 呉漢の軍は、楚では略奪を繰り返しました。劉秀の姉を娶ったケ晨の兄の子ケ奉が、故郷の南陽が略奪を受けるのを見て劉秀に背いたほどでした。劉秀と親しい間柄の者ですら背くことを決意するとは、かなり酷い行動が繰り返されたのでしょう。

 ケ奉は南陽の諸将と共に漢を攻撃し、27年に劉秀は自ら討伐に向かい、ケ奉を敗死させています。

 28年、劉秀のもとへ隗囂から馬援という使者がやってきます。馬援は隗囂のために、劉秀の内情を探りにやってきたのです。

 ここで馬援について記しておきましょう。

 馬援の祖先は、閼与の戦いで圧倒的な力を持つ秦を打ち破った趙の名将、趙奢に遡ります。趙奢は馬服君に封じられたことから、その子孫は馬服君から「馬」を姓としたのでした。曽祖父の馬通は巫蠱の禍で乱の平定を鎮圧する功績がありましたが、江充と親しかったことから処刑されることを恐れて反乱を起こして殺され、一族は仕官が禁じられました。

 彼は幼い頃から大望を抱いていたのですが、兄たちは馬鹿げたことだと思っていましたが、ただ1人、馬況だけは弟を認めていました。馬援は名家の生まれらしく『斉詩』を教えられますが、一章一句の読み方に拘泥する訓詁学を嫌い、牧畜を希望しました。馬況は「お前には大望がある。大器は晩成する(『論語』)ものだ。暫くは好きにするのがよい」と、馬援の行動を認めてくれました。

 馬援の父は既に亡くなっていたので、馬援はこうやって兄に頼ったのです。しかし、ほどなくして馬況が死んでしまったため、馬援は兄嫁の面倒を見ることになりました。そして、新が滅んだことで馬一族の出仕が可能となったため、馬援は郡の督郵となりました。

 ある時、囚人の護送をしていた馬園は、囚人に同情して囚人を解放し、北方へ逃げました。北方ではその地方の主となり、牧畜と農業でそれなりに実力を得ましたが、得たものは「財を得たなら施すものだ。そうしないと、財の虜になるばかりである」と言って周りの者に分け与えました。そして、自分は質素な姿のまま仕事に集中したので、ますます人々は馬援を慕うようになったのです。


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2020年03月08日

後漢 馬援と劉秀 劉秀は馬援と謁見する場に劉秀は頭巾を付けただけの姿で現れ、馬援と穏やかながら度量に満ちた態度で接する

 新が滅ぶと、馬援は隗囂の下につきました。そして、隗囂から公孫述と劉秀の様子を伺うように命じられたのでした。

 馬援と公孫述は同郷で、旧知の間柄でした。その馬援を、公孫述はもったいぶった儀式の後に皇帝として迎えたことで、馬援は失望し、帰国後に「公孫述は井の中の蛙である」と評して劉秀に味方することを説きます。

 この馬援が、劉秀のところへやってきました。劉秀は頭巾を被っただけの姿で馬援に会うと、笑いながら「君は2人の皇帝の間を行き来しているので、他人は君の姿を恥ずかしいと思うのではないか?」と問いました。馬援は、「今の世は、君主が臣下を選ぶだけではなく、臣下もまた主君を選んで仕えるのです」と切り替えしました。

 馬援は続けて、「私と公孫述は同郷で、幼馴染でした。しかし、私が蜀を訪れると、衛兵を挟んで対面してからようやく謁見が叶いました。今、陛下はなぜ遠くからやってきた私を刺客とお考えにならず、気軽にお会いになられるのですか?」と聞き返しました。劉秀はやはり笑いながら、「君は刺客などではなく、説客だと思っていた」と答えました。

 「天下を争う者は数え切れません。陛下を拝見するに度量が広く、高祖(劉邦)と同じ長所をお持ちですから、自ずと真の帝王でいらっしゃると分かります」と馬援が言ったため、劉秀は馬援をいたく気に入り、待詔という名目だけの官爵を与えて好意を示し、彼が帰国する際には来歙に見送りに派遣するほどでした。

 ここで名前の出てきた来歙は、劉一族と姻戚だったため、王莽により獄に入れられていたのを救い出され、妹を娶っていた漢中王劉嘉に仕えていました。劉嘉がケ禹に降ったのは、この来歙の助言があったからでした。その後、劉嘉の勧めによって来歙は劉秀の部下となっていました。来歙はこの後、隗囂の信用も得て何度も隴西を往復したり、隴西、蜀方面の攻略に参加していくことになります。

 さて、隗囂は帰国した馬援に東方の情報を尋ねます。馬援は、劉秀が何人も引見して意見を聞くこと、才能と勇気を併せ持ち、学問に広く通じて政治を理解している、などと褒めちぎりました。


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2020年03月09日

後漢 荊州(楚)対応の完了 独立していた李憲、秦豊、田戎らを次々と破り、南方を平定する 残るは隴西の隗囂、蜀の公孫述となる

 同じく28年には、漢は南方での作戦を継続させています。

 この年の主な攻撃対象となったのは、李憲という地方の官吏だった人物です。李憲は23年に自立して淮南王を、27年には天子を自称しており、その勢力は10余万にもなっていました。

 劉秀は馬成を派遣して李憲の籠る舒を囲みます。29年正月、舒は陥落し、李憲は城から逃れましたが、彼の部将たちは主を斬って降伏しました。

 28年には秦豊、田戎を続けて敗北させてもいます。29年に秦豊は捕斬され、田戎は逃げて蜀に入り公孫述に保護されました。

 こうして29年には江南から華南までが劉秀の勢力下に入ったのです。

 余裕ができてきたからか、29年には高等教育機関である太学が設置されます。太学は前漢武帝の時代に董仲舒の献策で設置されたのは始まりです。長安に置かれていたものを、洛陽で復活させたのです。

 官僚養成機関として太学は大いに発展し、後には3万人もの学生を抱えるようになっていきます。

 さて、楚(荊州)が劉秀の軍門に降ったことで、最大の敵は蜀に籠もる公孫述となりました。

 公孫述は自立してはいましたが、険阻な蜀に拠って勢力を保つだけで満足していました。

 蜀は険阻な山によって関中からのアクセスが制限されており、銅、鉄、銀が産出する豊かな土地でした。豊かな金属資源を背景に、30年には銅銭を廃止して史上初の鉄銭を鋳造しています。鉄銭は白なので、成家が尊んだ色と合いますね。

 また、井塩があるため、中央との連絡が途切れても大きな問題はありませんでした。塩は人類のみならず生物の生存に必須のものです。塩を手に入れるための努力はこれより前から熱心に行われていました。前1世紀には鑿井が行われており、その深さはなんと1440メートルにも及んだそうです。ボーリングの道具には竹を使い、先端には鋳鉄製のドリルビットが付けられました。ビットを引き上げるレバーに飛び乗り、次いで飛び降りることで岩を掘り進めたのです。ドリルビットを少しずつ回転させることで、穴は円形となりました。


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2020年03月10日

後漢 孤立する蜀 蜀は優れた技術で塩を自給できた他、貴金属の産出量も多く、中央からは天険に隔てられているため、公孫述は蜀に籠る

 ボーリングで発生する土塊は竹筒と複動式ピストンふいごで除去されました。穴が完成すると竹で裏打ちされました。

 井塩から組み上げられたのは、塩水ばかりではありません。塩水が湧く場所では、天然ガスもまた多く産出します。塩水層の下にメタンがたまりやすいのです。天然ガスは遅くとも前4世紀には利用されていました。その天然ガスを燃やして塩水を煮詰めたのです。

 公孫述は険阻な蜀に拠り、中央へ撃って出ようとはしませんでした。騎都尉の荊邯は撃って出て劉秀と戦うことを主張したのですが、公孫述は容れませんでした。

 しかし、劉秀が蜀以外を支配下に収めれば、次のターゲットが蜀になることは火を見るより明らかです。仮に公孫述の時には国を保つことができたとしても、蜀のみとその他全土を抑えた劉秀では、どちらがどちらを飲み込むかは明白ですね。馬援が「井の中の蛙」と評したのも頷けるでしょう。

 劉秀は隗囂に公孫述討伐を要請します。しかし、隗囂は力不足を理由に拒否しました。隗囂が劉秀とその他の勢力を両天秤にかけようとしていることを悟った劉秀は、相互対等な敵国の礼を改め、君臣の礼に変えました。

 29年、劉秀は来歙を隗囂のもとへ派遣し、重く封じることを約束して隗囂の入朝を求めました。しかし、隗囂は自ら赴くことを望まず、結局、長子の隗恂を質子として洛陽に送ることとします。隗恂は馬援と共に洛陽へ向かいました。

 洛陽についた馬援でしたが、隗囂の配下ということで仕事が与えられず、無聊をかこつことになります。馬援は連れてきた客が多いことから、関中で屯田を行うことを申し出て、許されました。そして屯田を行う傍らで、何度も隗囂に書簡を送って劉秀への帰順を説きます。

 ところが、その頃、隗囂は馬援を疎ましく思うようになっていました。かつて共に寝るほど馬援を信頼していた隗囂でしたが、馬援が不在となった間に讒言を吹き込まれ、馬援を疑うようになっていたのです。劉秀に降るべきだとの馬援の書簡は、自分を劉秀に売り渡そうというものに見えたのかも知れません。隗囂は劉秀にはつかないことを決めてしまいました。


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