2020年03月01日

後漢 赤眉の乱の終了 赤眉は東に逃れようとするがケ禹に代わった馮異に敗北、敗走するが劉秀が待ち構えていたことから降伏する

 収まらないのは李宝の部下です。李宝の弟は旧部下と共に蜂起、ケ禹の将である耿?を襲って殺してしまいました。

 悪いことは重なるもので、赤眉が長安に戻って来たためにこれを迎え撃ったケ禹でしたが、部下の離反に食糧不足も重なり、敗北を喫しました。

 劉秀はケ禹が連敗したことから、ケ禹に「固く守り、困窮した賊と軽々しく戦うこと慎むように。賊は疲弊し、必ず手を束ねることになるだろう。満たされた者が飢えた者を待ち、十分に休憩しておいて疲れた相手を撃てばよい」と諭しています。

 河北の銅馬集団を攻撃する際、劉秀自身が採った作戦ですね。

 それでも征西がうまく進まないことから、劉秀はケ禹を馮異と交代させることにします。

 馮異は王莽の下で潁川郡の掾(事務処理を行う曹の長官)となっており、劉秀が潁川を攻略した際に降っています。劉縯が誅殺されて劉秀が一度宛に戻った際、馮異は劉秀に帰順することを約束しました。劉秀軍が略奪を行わなかったことから、彼を非凡な人物であると認めたためです。

 その後、何度か馮異の守る城が攻撃された事がありましたが、馮異は固く守り、劉秀が再びやってきた際に開城して約束通り帰順していました。劉秀の河北征討の際にも付き従い、劉秀を助けていました。

 馮異が西に向かう途上で、東へ引き返してきたケ禹と遭遇します。ケ禹は失態を挽回しようと攻撃を主張し、劉秀の本体を待つべきだと主張する馮異を押し切って赤眉を攻撃しました。しかし、今回もまた、馮異とケ禹の軍は赤眉に大敗を喫し、ケ禹はわずか24騎で逃げる有様でした。

 ケ禹は敗戦を恥じ、大司徒と封じられていた梁侯の印綬を返却しました。ただ、劉秀は数カ月後にケ禹を右将軍に任じ、引き続き信任し続けました。
 
 一方、馮異は関中に残ります。そして敗残兵を集め、募兵で得た新戦力と共に赤眉を攻撃、これを破りました。27年4月のことです。

 赤眉はこの後東方に逃れようとするのですが、そこには後詰めとして自ら出陣していた劉秀の軍が立ち塞がっていました。困窮した赤眉は劉秀に降伏、長きに渡った赤眉の乱は終わりました。



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2020年03月02日

後漢 赤眉集団の戦後処理 劉盆子らは許され、多くは寿命をまっとうする 彭寵、かつての部下ばかりが重用されることを恨み、背く

 劉盆子他、赤眉の指導者は皆許され、邸宅を与えられて洛陽に暮らしました。

 赤眉の指導者たちについて先に述べてしまいましょう。劉盆子は趙の郎とされたのですが、後に失明してしまいます。その後、滎陽の均輸官の地位を与えられて税で暮らしました。その没年については記録が残っていません。徐宣、楊音らは故郷に帰って天寿を全うしました。樊崇、逢安らは翌年に反乱を起こし、誅殺されています。

 反乱の首謀者であっても、降伏した者は許されたのですね。関中を破壊し尽くし、人が人を食むような状況を作った類の人々に対して、甘すぎる気がしないでもありませんが。

 なお、赤眉の兵士たちは、銅馬集団などと同様に劉秀軍に編入されたと考えられます。これによって劉秀軍の規模は一気に膨れ上がったことでしょう。

 馮異は赤眉を逐った後も関中に残ります。そして、赤眉に引き続いて延岑を攻撃して破りました。延岑は更に弘農でもケ曄らに敗北し、南陽へ逃走しました。

 関中の最大勢力だった延岑が消えたことで、新たに最強となったのは劉秀です。劉秀の軍は軍律を守ったこともあり、多くの豪族は劉秀に従うようになりました。

 新たに従う者が現れれば、離れるものも現れます。同じく26年、漁陽の彭寵が背いたのです。

 彭寵は劉秀の河北転戦時、劉秀側に立って部下の呉漢や王梁を派遣していた人物です。彭寵はかつての部下ばかりが重用され、自分が日の目を見ないことに不満を抱いたのです。しかし、呉漢らは戦場を疾駆して目立つ功績を上げているわけですから、多少なりとも扱いに差が生じるのは仕方のないことです。

 どう見ても、逆恨み以外の何物でもありませんね。男の嫉妬ないしルサンチマンはしばしば男を破滅に追いやるものなのです。

 彭寵は塩鉄官の集めた資材を自分のものとして財を貯めるようになりました。そして、匈奴に美女や絹織物を送って親しみ、これらを元に反乱を起こしたのです。そしてかつての燕の首都の薊を落として燕王を名乗りました。


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2020年03月03日

後漢 彭寵の反乱鎮圧 彭寵を劉秀側に立たせた耿弇が彭寵鎮圧に当たる 彭寵は敗北して地方へ追い詰められ、奴婢に殺されて反乱は自滅する

 その討伐に向かったのは、彭寵を劉秀側に付かせるきっかけを作った耿弇です。しかし、耿弇は進軍することなく、洛陽に上書します。というのは、彼の父の耿況は彭寵と親しかったので、共に背いているかもしれないと疑ったのです。そして、自分の父も背いているかもしれないという状況で自分が討伐に向かっても疑念を抱かれるのではないかと恐れたのです。

 劉秀は、「将軍は自らをはじめ一族をあげて国のために尽くし、戦えば敵を破り、功績は顕著である。何を疑えというのか。同僚の王常と共に涿郡に向かい、そこで作戦を立てるように」とその不安を一蹴しました。一方の耿況は劉秀のもとへ一族から人質を送ったので、劉秀と耿一族のつながりはむしろ強まりました。

 後顧の憂いを断った耿弇は反乱鎮圧に向かいます。彭寵は匈奴の兵2000も援軍に迎えていたのですが、耿弇の弟の耿舒はこれを攻撃して破り、匈奴の2人の王を斬ったため、彭寵は退却するしかありませんでした。

 彭寵のその後の栄華は長くは続きませんでした。29年、彭寵は奴僕に殺されてあっけなく自滅したのです。奴僕の子密らは彭寵の寝室に入り込むと、ベッドに縛り付け、彭寵の妻に袋を2つ縫わせます。財宝を奪い、逃走のためウマを用意してから彭寵の手を解き、城門を通過する手形を書かせます。そして、文書ができあがると、彭寵とその妻の首を刎ねて袋(彭寵の妻が作らされたものですね)に入れると、劉秀に降ったのです。燕では彭寵の子の彭午を立てて抵抗を続けようとする者もありましたが、国師の韓利は彭午の首を斬って降伏しました。彭寵の一族は誅殺され、子密は不義侯に任じられました。不義侯という名から、劉秀の複雑な思いが見て取れますね。

 やや先走りましたね。26年に戻りましょう。

 耿弇は彭寵との戦いが一段落つくと、続いて斉で自立していた張歩の討伐に向かいます。耿弇来襲を聞いた張歩は歴止と祝阿に軍を配置し、鍾城に軍営数十を連ねて待ち構えました。耿弇はまず祝阿の城を攻撃すると、正午までに城を落とすという快挙を成し遂げました。

 守備側は防衛線に沿って守りを固めなければなりませんが、攻撃側はその中の一点を破ればよいわけですから、攻撃側の有利さが際立った形ですね。

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2020年03月04日

後漢 耿弇の臨淄攻略 耿弇は攻めやすいと見た臨淄を更に油断させ、急襲することでわずか反日で陥落させる

 この際、敢えて包囲の一角を開けておくことで、あえて敵兵を逃します。兵法に、包囲された敵は命を賭して戦うようになるので一箇所は包囲を開けておくように、とあることを忠実になぞった作戦ですね。鍾城の人々は祝阿がたちどころに落とされたことを知って恐れ、城を空にして逃げ出しました。

 歴止を守る費邑は弟の費敢を派遣して巨里を守らせます。耿弇は巨里に至ると、周囲の木を切り倒し、堀を埋めてやると広言します。費邑は巨里を救けるべく兵を発しました。それを知った耿弇は、「速やかに攻城兵器を整えよ。3日後に攻撃をしかけ、必ずや城を抜くぞ」と言い渡します。この際、捕虜を縛る縄を緩くし、逃げ帰る者を出します。そして、彼らの口から、攻撃計画が伝わることになったのです。

 費邑は耿弇が城を攻撃する3日後に不意打ちしようと軍を進めました。

 ところが、これこそが耿弇の策略だったのです。「攻城兵器を整えさせたのは、費邑を誘き寄せるためである。今到来したというのは、こちらの望み通りだ」というと、3000の別働隊に巨里を囲ませておいて、自らは精鋭を率いて山に潜み、費邑が近づいたところで駆け下って勝利を得、費邑を斬ったのです。

 費邑の首を示された巨里の人々は恐れ、費敢はなんとか逃げ出して張歩のもとへ逃げ帰りました。

 張歩は弟の張藍に2万を預けて西安を守らせ、また臨淄には太守が数万の兵で立てこもりました。耿弇は両城の間に来て観察した所、西安は城は小さいながら守りは固く、逆に臨淄は大きいけれど攻めやすいと見ます。そして、部下を集めて「5日後に西安を攻める」と告げました。この情報はスパイを通じて斉側にも伝わります。西安は朝から夜まで守りを固めました。

 そして5日め、耿弇は夜半に兵士たちに食事を取らせて新発すると、明け方には臨淄に至りました。部下は「予定通り、早く西安を攻めましょう!」と言いましたが、耿弇は「そうではない。西安は我々の攻撃を受けると聞いて日夜備えている。臨淄は備えていないので、我々が突然現れて混乱させれば1日で臨淄を落とすことができよう。臨淄が落ちれば西安は孤立し、逃げ去るであろう。逆に西安を攻めてすぐに攻略できず、西安に張り付いてしまえば死傷者は多く、仮に抜いても西安から逃げた敵は臨?の敵と合流してこちらの隙を窺うことになるだろう。補給の無い我々は数日のうちに苦しむことになる」と言うと、そのまま臨淄を攻めてわずか半日で城を抜きました。


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2020年03月05日

後漢 斉平定 耿弇は巧みな用兵で張歩の軍を破り、張歩を降伏に追い込む 劉秀は耿弇を韓信に勝ると激賞

 西安を守る張藍は臨?が落ちたことを知ると、張歩のもとへ帰還しました。

 戦国時代の斉の首都臨淄を落とされたとは言え、張歩はまだ10余万という、耿弇を圧倒する大軍を擁していました。張歩は麾下の軍を20万と号し、連戦で疲れ果てている耿弇軍を一気に殲滅すべく、臨淄の東へ軍を進めました。

 魯に駐屯していた劉秀は自ら耿弇を救おうと、斉へ向かいます。

 臨淄では、耿弇はまず淄水のほとりで張歩の弟の張異の軍と遭遇します。ここで大勝してしまえば張歩を引き込めないと考えた耿弇は、敢えて敗れたように見せかけて臨淄へ逃げ込みます。張歩は勢いづいて城外の陣地に猛攻を加えました。それを見た耿弇は自ら軍を率いて撃って出ると、張歩の軍の横腹に突撃しました。

 戦いは激しく、その最中に飛矢が耿弇の股に当たりましたが、彼は直ちに刀でそれを切り落としたため、誰も耿?の負傷には気が付きませんでした。夜まで続いた戦いは、耿弇が張歩に打撃を与えたものの、包囲は続くという状況で終わりました。

 耿弇の部下は、「敵は意気盛んです。暫くは城を固く守り、兵を休ませるべきです」と主張しましたが、「もうすぐにでも主君の輿がやってくるのだから、宴会の準備をして待つべきときだと言うのに、主君のために敵を残しておけというのか」というと、1日のみ休息をとっただけで再び出撃します。朝から夜遅くまで戦いは続き、耿?は敵を散々に破って張歩を撤退に追い込みました。

 張歩が退却する途中、にわかに左右より耿弇の伏兵が現れます。耿弇は張歩退却を見越して戦いの途中に一部の兵を割いて待ち伏せさせていたのです。斉軍の戦死者は8〜90里に渡って連なり、耿弇は輜重2000両余りを鹵獲するという大勝利でした。

 臨淄に到着した劉秀は、耿弇の功績は無抵抗の斉を得ただけの韓信をも凌ぐと激賞しています。そして、劉邦が酈食其を煮殺した田常を許したのと同じように、自分も張歩が降るのであれば許すと告げさせます。張歩は肩脱ぎして(処刑される覚悟を見せて)降伏し、斉は平定されました。

 耿弇は張歩を劉秀のもとへ送り、平寿城に入ります。斉の兵はまだ10万を数え、輜車は7000両もあったそうです。戦いで得た物資や兵は、劉秀の軍に組み込まれていくことになります。

 この後も耿弇は農民反乱の鎮圧に奔走し、勝利を重ねることになります。


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