2020年02月29日

後漢 ケ禹の関中派遣 即位した劉秀は直ちにもっとも信頼するケ禹を関中送る ケ禹は軍紀を守らせたため、多くの者がケ禹に降る

 関中は魅力的な土地ではなくなっていたのですね。赤眉は漢を復興させようとは思っていたかも知れませんが、結局、国を立て直すだけの能力や気概は持ち合わせていなかったのです。

 赤眉は関中を捨て、山東へ移動を開始します。このとき、20万の規模だったということですので、まだ大きな勢力を保っていました。

 主の不在となった長安に入ったのは、劉秀の遣わしたケ禹です。

 ケ禹は25年1月に箕関を落として関中に入ると、劉玄の遣わした樊参らを討って橋頭堡を確保します。ただ、劉玄の軍は数万に及んだため、ケ禹は苦境に陥ります。側近から一度は逃亡を勧められたケ禹でしたが、これを拒否して陣を固め、劉玄の軍を破って河東を得ました。

 劉秀は即位すると、ケ禹に使者を送って大司徒に任じました。ケ禹24歳のときでした。

 ケ禹は軍紀を糺していたため、無秩序な略奪に晒されていた人々はケ禹軍を歓迎、降伏する者は日に千を数えたそうです。こうして調子よく進軍したケ禹は長安に入り、前漢の宗廟から11の木製の位牌を洛陽に送りました。

 この動きには隗囂も協力しています。隗囂は劉秀と連絡を取り、対等の立場を確認し合いました。これを、敵国の礼と言います。

 関中で存在感を増しつつあった隗囂と結ぼうとしたのは劉秀1人ではありません。蜀の公孫述は隗囂を抱込もうと大司空に任じ、王に封じています。しかし、隗囂は拒否し公孫述の派遣した軍を攻撃して打ち破っています。

 ところが、前述した通り、様々な勢力が関中に入り込んでいましたので、長安の維持は容易なものではありませんでした。

 直ちに対処しなければならなかったのは、赤眉を破った延岑です。ケ禹は延岑を攻撃しますが、敗れてしまいます。

 一方、漢中王劉嘉は劉秀とのかつての縁もあり、ケ禹に降伏します。李宝は守りを固めて様子見すべきだと進言していたこともあり、止む無く共に降伏はしたものの、不遜な態度を取りました。ケ禹はこれを怒り、李宝を誅殺してしまいます。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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