2020年02月28日

後漢 関中の荒廃 赤眉は関中で略奪を繰り返して荒廃させる 争っていた劉嘉と延岑は対赤眉で結びつき、赤眉を大敗させた

 一方、関中の豪族にとって、長安に居座って略奪を繰り返す赤眉は災厄そのものでした。そこで、彼らは関中の外の勢力を招き入れます。
その中の1人が、漢中の延岑です。

 延岑が関中に侵入したことを受け、赤眉の将軍逢安が延岑を攻撃します。赤眉は大勝し、延岑は退却して杜陵を根拠地とします。そして、それまで何度か干戈を交えてきた劉嘉と結びます。

 劉嘉は南陽劉氏出身で、幼い頃に父を亡くしていたことから、劉秀の父に我が子のように育てられ、劉縯と共に長安で学んだことがあります。劉縯が挙兵すると、劉嘉を遣わして平林の反乱軍と誼を通じました。劉縯誅殺の後は劉玄の下に属し、劉玄が即位すると偏将軍となり、宛を攻略後は興徳侯に封じられ、大将軍となりました。かつては延岑を破って服属させたこともあります。そして、劉玄が長安に遷都すると、漢中王に任じられ、南鄭を有しました。

 延岑が自立する際、劉嘉に対して反乱を起こし、南鄭を囲んで劉嘉を武都へ逃亡させています。延岑は武都まで追撃しましたが、逆に敗れて天水へ逃亡、その隙に南鄭には公孫述が出てきました。そのため、劉嘉と延岑の争いは関中に場を移していました。

 この両者が結んで赤眉と対決する事になったのです。

 延岑の軍は劉嘉の将軍李宝の援軍を得て再び赤眉を攻撃します。李宝は偽って赤眉に下り、赤眉軍が延岑攻撃に出た隙に、赤眉の本陣の旗を李宝のものに差し替えてしまったのです。赤眉は野戦には勝利していたのですが、帰陣して旗を見ると、本陣が失われたと考えて潰走、追撃を受けて大敗したのです。この敗戦で、赤眉は10万の兵士を失ったと伝えられます。関中を維持するには致命的な大ダメージとなりました。26年9月のことです。

 赤眉が漢中を捨てることにした原因は、敗戦だけではありません。関中は長く続いた戦乱に加えて赤眉が略奪を繰り返していたため、既に食料時給が不可能となっていました。郊外には白骨が散乱し、飢えた人々が人肉を漁る有様だった、と伝えられます。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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