2020年02月27日

後漢 糟糠の妻は堂より下さず 劉秀の姉で夫と死別していた湖陽公主は既婚の宋弘に思いを寄せるが、宋弘は妻を捨てる気は無かった

 なお、この年は、王莽時代に多くの者が冤罪で下獄していたことを受けて3月に大赦が、5月には奴婢の解放が行われています。冤罪だけではなく、法に触れて奴婢に落とされる者もまた多くありました。また、困窮した農民は子供を奴婢に売っていました。売られて奴婢になった者のうち、父母の下に帰ることを望む者を解放したのです。さらに、6月には郭貴人を皇后に立てたことを祝して大赦を行いました。恤民政策を続けたのは農民反乱が赤眉や緑林、銅馬をはじめ多くの反乱が起こって政情不安になっていたことの裏返してもあるのでしょう。

 あるいはこの頃のことでしょうか。

 劉秀の姉の湖陽公主は夫に先立たれて独り身となっていました。その再婚相手について誰が良いかを訪ねたところ、彼女は宣平侯で太中大夫の宋弘を希望しました。

 宋弘は結婚していたので、劉秀は宋弘が参内した時に、屏風の裏に湖陽公主を潜ませておいて「諺に、『貴い立場となれば交友関係を変え、富んではその妻を変える』というであろう。人の情とは、そのようなものであろうか」と尋ねます。

 暗に「地位も富も得た貴方は妻を変えたいと思うか」と聞いたわけですね。

 宋弘は「臣は『貧しい時に自分を認めてくれた者は忘れてはならない、糟糠の妻は堂より下してはならない』と聞きます」と答えました。これが「糟糠の妻は堂より下さず」の語源です。なお、糟は酒粕、糠は米糠のことですから、この言葉は「粗食をともに耐え偲んだ暮らしを共にした妻を正妻から変えてはならない」という意味です。

 劉秀は宋弘の意を理解し、屏風を振り返って「うまくいきませんな」と言いました。

 なお、宋弘には子がなく、彼が後に世を去った後には跡継ぎがないまま宣平侯の地位は無くなりました。

 さて、皇帝を名乗り洛陽を都と定めた劉秀にとって、長安に居座る赤眉は打倒しなければならない存在となりました。

 視点を変えて、赤眉側から見てみましょう。旧都長安こそ押さえてはいますが、東方には劉秀、西北の隴西では隗囂が、漢中では延岑が、巴蜀では公孫述が、荊州では秦豊が自立していました。赤眉にとっては包囲されている状況です。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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