2020年02月26日

後漢 更始帝の死 略奪を繰り返して人心の離れた赤眉は更始帝を縊り殺して憂いを断つ 劉秀は功臣を封じ、漢の廟を建てて正統性を訴える

 略奪が繰り返されるのを見た有力者たちは、当初の赤眉への期待が冷め、更始帝劉玄に近づきます。これを嫌った赤眉は、同年12月に劉玄を郊外に誘い出すと、縊り殺してしまいました。

 更始帝政権で執金吾だったケ曄らは劉秀のもとへ身を投じました。

 その後、赤眉の略奪は激しさを増します。翌年の1月には、長安の宮殿は全て焼き払われ、皇帝陵も盗掘を受ける有様でした。更始帝劉玄が長安に入った時には未央宮以外は無事だったので、長安の破壊は赤眉に最大の責があることになりますね。

 同じ26年正月、劉秀は功臣を列侯に封じます。そして洛陽に高祖劉邦の廟を建て、漢の後継者であることをはっきりさせました。また、洛陽の南には天地を祀る祭壇の郊兆を建設しています。

 天地を祀る郊兆や、王朝交代の際に執り行った祭天の儀式は王莽が定めたものでしたね。劉秀は反乱に参加して王莽を否定したわけですが、王莽の政策全てを否定したわけではないことが分かります。

 『秦漢帝国 (講談社学術文庫) - 西嶋 定生』はこう記します。

つまりこのことは、古礼を復活するという名目でなされた前漢末の礼制改革問題において、最終的にそれを定着させたのは王莽であること、その意味で、王莽こそ儒教国教化の完成者であったということ、そして、王莽の制定した礼制が、王莽に対する非難にもかかわらず、その後の中国王朝の礼制として踏襲されたということ、そしてまた、そのことを最初に示したのが、王莽打倒のために挙兵して漢王朝を再興した光武帝であったこと、を示している。


 劉秀が王莽の全否定に走らなかったことは、王莽は祭祀を決めるようなことには有能さを発揮していたことの何よりの証左でしょう。また、それ故にこそ、王莽の定めた礼はこの遥か未来まで引き継がれることになったのでしょう。
漢は火徳と定め、赤を尊ぶことになりました。

秦漢帝国 (講談社学術文庫) - 西嶋 定生
秦漢帝国 (講談社学術文庫) - 西嶋 定生


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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