2020年02月25日

後漢 更始政権の崩壊 クーデターが失敗に終わったため、張卬らは赤眉の軍に逃げ込み長安へ導く 9月、長安は陥落し、更始帝政権は崩壊した

 劉玄は姻戚で右司馬の趙萌が駐屯する新豊へ逃げ、張卬らを攻撃します。

 激戦の末、劉玄側が勝利を得ましたが、勝利は仮初のものとなりました。敗走した張卬らは長安に迫りつつあった赤眉のもとへ逃げ込み、長安へ導いたのです。

 9月、赤眉は長安を攻撃します。劉玄を軍事的に支えていたのは緑林出身者でしたから、この時には劉玄軍の少なからずが離反していたことになります。赤眉の軍勢を見た劉玄は単騎長安を脱出、残された将軍や官吏らは赤眉に降伏しました。こうして呆気なく更始帝政権は崩壊したのでした。

 長安陥落を受け、洛陽の朱鮪は劉秀に降伏しました。劉秀にとって朱鮪は兄の仇でしたが、劉秀は後の影響も考えて朱鮪を許し、地位もとどめました。

 10月、劉秀は洛陽に入り、首都と定めます。この時点においては、劉秀は長安を制圧していないため、長安を首都にすることは現実的に不可能だったわけではありますが、劉秀が天下を統一した後に至るも、洛陽は首都であり続けました。

 前漢の場合、東には異姓の諸王がいたため、関所に囲まれた関中に都を置くことが合理的でした。ところが、後漢では広大な土地を持つ王はいませんでしたから、諸王が背いた場合に備える必要はなかったのです。軍事的な優位性を捨ててしまえば、長安は西に偏りすぎていますので、交通の便を考えれば洛陽の方が遥かに優れています。この判断にしても、前例に従うだけではない劉秀の判断力を見ることができますね。

 同じく10月、劉玄はいつまでも逃れ続けることはできないと、皇帝の璽綬を携えて赤眉に降伏しています。赤眉は劉玄を許し、列侯に封じました。

 赤眉はこうして長安を抑えたわけですが、大都市を維持するための統治機構は構築できませんでした。長安のような大都市は、農業生産力はほぼなく、近隣からの食料輸送に頼らなければなりません。ということは、維持するためには現地での買付、輸送、大都市での分配といった行政機構が必須となります。しかし、赤眉はそれを持たなかったのです。

 畢竟、彼らは近隣から略奪するしかありませんでした。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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