2020年02月21日

後漢 河南の実力者劉揚の反乱 妻の一族のトップ、真定王劉揚は自ら天子になろうと讖緯をでっち上げ反乱を起こすが誅殺される

 血筋から言えば、劉揚もまた皇帝となってもおかしくない存在でした。いえ、真定王の直系であることを考えれば、劉秀よりも前漢の皇帝の後を襲うのに相応しい存在でした。

 こうしたことから、劉揚は自ら天子となろうとしたのです。彼は「赤九之後癭揚為主」との讖記をでっち上げます。

 赤は火徳の漢を、九は9代目を示しますので、前半は漢の9代後の意味になります。そして後半は、癭(瘤)のある揚が主となる、という意味です。劉揚は首筋に瘤がありましたから、この讖緯の意味するところは劉揚が天子となる、ということですね。彼は天子となることを考え、劉秀に服していない者たちと連絡を取り始めたのです。

 劉秀からすれば到底看過できない事態ですので劉揚を召喚しようとしますが、劉揚は城門を閉ざして拒否しました。

 そこで、劉楊の外甥に当たる前将軍耿純を真定に派遣します。劉揚は警戒して会おうとしませんでしたが、耿純が遜った態度を崩さなかったことから、面会を承諾します。耿純はこの機会を逃さず、劉揚とその一族を捕らえ、誅殺しました。

 劉揚を懐柔するのではなく誅殺したということは、既に劉秀の力は確固たるものとなっており、劉揚の力は不要になっていたことを意味しますね。

 皇帝との血縁を背景に、劉一族からは少なからぬ者が天下を伺っていましたので、劉揚は同族との争いの皮切りに過ぎませんでした。
同じく26年には、梁王劉永へ討伐軍を送っています。

 劉永は梁王劉立の子です。劉立は平帝の外戚衛氏と親しかったことから、衛一族が王莽に滅ぼされた際に、共に粛清されていました。こうしたこともあり、新が滅んで劉玄が長安に入ると、劉玄に謁見して梁王に任じられていました。

 劉玄の政治が乱脈を極めるようになったことを見て取った劉永は独自の動きを取るようになっており、天子を名乗って自立したのです。

 劉秀は蓋延を派遣して滎陽を囲ませます。城は陥落しましたが、劉永は逃れて戦い続けます。内紛などもあり、29年に劉永は部下に殺害されますが、一部の部将たちは劉永の息子の劉紆を立てて抵抗を継続、最終的には32年に鎮圧されるまで戦いは続くことになります。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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