2020年02月18日

後漢 赤眉の離反 赤眉は長安を出て2手に別れ、南陽と河南を攻撃して県令や太守を殺害する 隗囂の謀臣だった方望もまた背く

 赤眉と反乱軍は2手に分かれ、一派は南陽に向って宛の県令を殺し、もう一派は河南に向かって太守を殺します。それまで赤眉は郡県の令を攻めて殺害するような行動はとっていませんでした。明確に赤眉集団の性格が変わったのです。この性格の変化は、農民反乱から王朝形成へと目的が変わったためと説明されることが多いそうです。

 新たな王朝の創設を目指すようになったとしても、根無し草の放浪軍に過ぎません。まして、当時は正規軍ですら現地調達が基本ですから、赤眉が入り込んだ場所は大変な収奪を受けることになります。

 東方で力を蓄えつつあった劉秀は赤眉を攻撃します。赤眉は敗北し、長安へ向かいました。そして、武関、陸渾関を破って関中に入ります。
劉秀は関中の混乱を知って、ケ禹を関中へ派遣し、併呑しようとします。ここに、劉秀は劉玄と敵対を開始したのです。劉玄は朱鮪を洛陽に送って劉秀を牽制させ、劉秀は馮異を孟津に駐屯させて対抗させました。

 更始帝政権のだらしなさに反旗を翻したのは赤眉だけではありません。25年1月、かつて隗囂の謀臣だった方望は、王莽に廃された孺子嬰を探し出し、これを擁立して漢復興を図ります。数千人の兵士が集まり、方望は丞相となったのですが、劉玄の派遣した鎮圧軍により蹴散らされてしまいます。結局、この戦いで劉嬰や方望は戦死しました。前漢のラストエンペラーの敢えない最期でした。

 その隙に、ケ禹は関中へ侵入します。張卬(劉玄と劉縯のどちらが皇帝になるか決めあぐねていた際、剣で地面に切りつけて結論を出すことを迫った緑林系の将軍でしたね)らの率いる10数万の軍がこれを迎え撃ちましたが、戦いはケ禹側の勝利に終わり、張卬らは長安に逃げ帰りました。

 3月、赤眉は弘農県に集合し、体制を整えるため1万ごとに1営を設置しました。その数、30営に及んだというので、大変な数に膨れ上がっていたことになりますね。劉玄は討伐軍を派遣しましたが、敗北を喫しています。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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