2020年02月14日

後漢 劉玄の堕落 長安に入った劉玄は綺羅びやかな宮殿に入り、酒色に溺れて政治を忘れる 露骨な贔屓で料理人にまで官爵が与えられた

 長楽宮に入った更始帝劉玄は一族や功臣を王に封じます。

 この時、隴西に拠っていた隗囂を招聘し、隗囂は謀臣の方望の諫止を無視して劉玄に応じ、右将軍に任じられました。諫言が受け入れられなかった方望は手紙を遺して隗囂の下を去り、また独自に漢復興を図るようになっていきます。

 既にそれなりの地歩を固めた者を高い地位につけるという例はありましたが、全体で見れば引き続き、緑林系の新市、平林の指導者が力を持ち続けました。

 論功行賞は彼らの意図もあって、仲間内で官爵を与えあった結果、信賞必罰とはかけ離れた人事が行われました。例えば料理人に官爵が与えられることまでありました。「竈炊きは中郎将、ヒツジの胃を焼けば騎都尉になり、ヒツジの頭なら関内侯」なる戯れ歌が流行ったそうです。

 人間、得てして自分が依怙贔屓される側の時には文句を言わないのですが、冷遇される側となれば不満を溜め込むものです。この状況で不満を抱いたのは赤眉集団で、それがまた大きく歴史を動かしていくことになります。

 一方の劉秀は、数万の兵を集めたとは言え、王朗を直ちに下すだけの力はありませんでした。ケ禹の部隊が王朗との戦いで敗北を喫したために劉秀が敗残兵を集めに回るようなこともありました。劉秀が王朗の軍と戦って勝利を得ると、劉秀側に立つ者が増えていきます。

 特に大きかったのは、元の真定王劉揚を取り込んだことでしょう。劉揚は10万の兵を率いて王郎に与していたのですが、劉秀の説得に応じて姪の聖通を劉秀と結婚させ、劉秀側に付いたのです。

 聖通の父は既に世を去っておりましたが、真定の大豪族郭氏につながる郭昌という人物です。つまり、劉揚の軍に加えて現地の大豪族を味方につけたことになるのですね。このことは、同時に王郎派ばかりだった豪族たちの切り崩しに成功したことも意味します。

 河北の豪族や上谷太守耿況、魚陽太守彭寵らが劉邦側に立つようになり、その部将の寇恂や呉漢らが劉秀軍に参加するようになりました。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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