2020年02月13日

後漢 逃亡生活 命からがら逃げ出した劉秀たちは、飢えと寒さに苦しみながら各地を彷徨う中で、信都太守任光に助けられ、九死に一生を得る

 一方、命からがら逃げ出した劉秀たちは食事にさえ事欠く有様でした。馮異が薪を集め、ケ禹が燃やした火で劉秀は服を乾燥させたり、馮異の作った豆粥で飢えと寒さを凌いだりと、大変な苦労があったようです。

 遂に、彼らは「王朗の使者である」と偽って、使者が休憩するための施設である伝舎に入ります。出された食事をがつがつと食べたことから伝舎の役人は偽物と疑い、「邯鄲の将軍がお見えだ」と嘘をつきます。周囲の者はみな色を失いましたが、劉秀は今からウマに乗って逃げても追いつかれると思い、「将軍を招き入れてくれ」と申し出ます。邯鄲からの本当の使者などいなかったため、劉秀は暫くして、駕して去りました。

 伝舎の者は遠くから門番に門を閉じて劉秀を出さないようにさせようとしましたが、門番は「天下はまだ定まっていないのに、信望を集める人物を閉じ込めることなどできない」といい、命令に従いませんでした。

 こうして危地を脱した一行でしたが、直ちに状況が改善するはずもありません。季節は冬。霜を踏み、雪を耐えての行動だったため、皆顔にあかぎれを生じさせる状態でした。困窮の中、道に迷って敵の支配する城に近づいてしまい、慌てて逃げたこともあります。

 救いの手を差し伸べたのは、信都太守の任光(じんこう)です。任光は城門を開いて劉秀一行を暖かく迎え入れたのです。

 劉秀は近隣から4000人を徴発して近くの街を攻略していきました。和正の太守邳彤もまた、郡を挙げて劉秀に従います。多少なりとも基盤ができたことで、劉植や耿純らが一族で参加するようになりました。

 下曲陽という大きな街を落としたことで、劉秀は数万の兵を手に入れます。ようやく人心地ついたことでしょう。

 劉秀が河北を転戦するさなかの24年2月、劉玄は長安へ移り、前漢に倣ってここを首都と定めます。未央宮は焼け落ちていたのですが、他は残っていたので、首都機能は問題なくあったはずです。

 問題なのは、インフラではなく、それを用いる人間側にありました。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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