2020年02月12日

後漢 王朗、背く 邯鄲出身の占い師の王朗、成帝の子を自称して邯鄲で背き、劉秀は危機に陥る 名将として讃えられることになる耿弇の合流

 なお、王郎は邯鄲出身で、人相見や占いを行っていました。王朗は自らの占いから、東方で天子が生まれると考えるようになり、成帝の子を自称していました。どのような理由か、かねてから付き合いのある劉林はこれを信じます。

 劉秀は邯鄲に戻ることもできず、王朗から逃れて真定へ逃げざるを得ませんでした。王郎は河北殻遼東に至る、広い地域を支配下に収めてしまいます。

 困窮した劉秀に力強い味方が表れたのは、この頃のことです。耿弇という若者が劉秀を訪ねてきたのです。

 耿弇の父の耿況は、王莽によって上谷郡の太守(新の制度に従えば、朔調の連率)に任命されていました。王莽が滅ぶと、不安になった耿況は息子の耿弇を劉玄の下へ送り、好を通じようとしました。耿弇の周囲の者は皆王朗のもとへ奔ったのですが、耿弇は王朗はそんな器ではないと考え、中山郡の盧奴にいる劉秀を訪れたのでした。

 彼は早速、兵を発して邯鄲を囲むべしと劉秀に進言し、劉秀から「大意のある小僧だ」と笑い、以後目をくれるようになりました。

 24年1月、劉秀は河北の北、薊を攻撃しようとします。一方、王朗は劉秀の首に10万戸の報奨を与えるとの檄を飛ばしたため、薊では広陽王の子の劉接は薊で軍備を固めました。

 ところが、南方から王朗の軍が接近しているとの情報が入ります。薊を囲んでいる最中に王朗軍がやってきてしまえば、挟撃されて軍は壊滅するでしょう。

 劉秀は薊に入ることも叶わず、逃げる相談をします。そして南方へ逃げようと決まった所、大望ある若者耿弇は、「敵は南から来ているのですから南に行ってはいけません。漁陽の太守彭寵は殿と同郷ですし、上告太守は私の父です。両郡から万の騎射を集めれば、恐るるに足りません」と主張しました。他の人々は、「死が待っているとしても、それでも南に向かう。北は袋小路で逃げ場がない」と言い、南に向かいました。

 この際、耿弇は北へ走り、父の耿況を説いて寇恂を使いに出して彭寵にも劉秀に付くことを約束させました。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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