2020年02月11日

後漢 ケ禹合流 河北に入った劉秀に旧知のケ禹が合流、以後股肱の臣として劉秀を支えることになる

 新が滅んでも、直ちに新たな統一政権が生まれるわけがありません。新が滅んだ23年9月、劉玄は劉秀を河北へ派遣します。

 劉?のこともあり、劉秀を目の届かない遠方へ派遣することには反対論もありました。特に、大司馬となった朱鮪は強く反対します。しかし、丞相に任じられた劉賜が強く劉秀を推したことから、劉秀派遣が決まったのでした。

 劉秀にとっては、虎口を脱したことになります。

 河北へ向かった劉秀が鄴に入ったところで、旧知の人物の面会を受けます。

 それは南陽新野出身のケ禹という人物で、13歳で詩を暗誦して才能を知られ、長安に留学していました。同じ時期、劉秀もまた長安に学んでいました。ケ禹の方が年齢は若かったのですが、彼は劉秀が非常の人であることを見抜き、親しんでいました。

 ケ禹は各地で反乱が起こると、現地の有力者から推薦を受けたのではありますが、従おうとせずに、劉秀が立ったと聞いて河北まで追いかけてきたのです。

 劉秀はさっそくケ禹を引見して「私は官爵を自由を与えることができるようになった。君は遠くからやってきて、どのような役職を望むか」と問いますが、ケ禹は「望みません」と答えます。

 「では、何を求めているのか」との重ねての問いかけに、「但だ願わくは、明公の威徳、四海に加わり、禹は其の尺寸を効(いた)して功名を竹帛に垂るることを得ん耳(のみ)」(『後漢書』)と答えて劉秀を笑わせました。親しい間柄だからこその遣り取りですね。

 以後、ケ禹は劉秀の側にあって転戦を続けることになります。

 さて、劉秀は戦国時代の趙の首都、邯鄲に入ります。この邯鄲で、劉秀は趙王の子で景帝の7代後の子孫の劉林と面談の機会を持ちました。劉林は略奪も行っていた赤眉の殲滅させようと川を決壊させて赤眉の陣に注げば良いと進言しますが、劉秀はこれに答えず、北方の真定へ向かいました。

 劉秀の態度に失望した劉林は、劉秀が邯鄲から出ると王郎(王昌とも言われます)を立てて抵抗しました。この際、王朗は天子を名乗っていますから、更始帝政権とは完全に敵対する状態に入っています。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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