2020年02月09日

後漢 劉縯誅殺 劉玄は功績、能力、人望のいずれも自分に勝る劉縯を、機会を見つけて誅殺してしまう

 劉稷は劉玄が即位した際、魯陽を攻撃している最中でした。劉玄即位を知った劉稷は「蜂起を画策したのは劉伯升(伯升は劉縯の字)と劉文叔(同じく劉秀の字)兄弟ではないか。劉聖公(劉玄の字)が何をしたというのか」と怒声を放っていたことが劉玄らの知るところとなり、警戒されていたのです。

 そこに劉縯が駆けつけたのですが、彼と共に挙兵した李軼は劉縯の殺害を勧めました。劉玄はこの進言を受け、劉稷と共に劉縯を処刑してしまいました。

 劉縯はもともと声望が高かったことに加えて宛を攻略するという功績をあげ、弟の劉秀は昆陽の戦いで新の大軍を撃滅するというこれまた大きな戦果を上げています。これが劉玄や旧緑林軍側の警戒を生んだのです。

 実はこれよりも先に、劉縯が劉玄と会った際、部下が密かに玉玦を見せて誅殺を勧めたことがあります。それに気づいた劉縯の側近は劉縯に忠告していましたが、劉縯はまったく聞こうとしませんでした。李軼の劉玄への接近も警告されていましたが、こちらもまた無視されていました。劉縯の死は、権力闘争を甘く見た結果だった、といえるかもしれません。

 兄を主君に殺された劉秀でしたが、この時点では独り立ちできるだけの力など持っていませんでした。

 劉秀は宛に向かうと、ただちに劉玄に兄劉縯の無礼について劉玄に詫びを入れ、変わらぬ忠誠を誓いました。劉秀は徹底して危険を避けようとし、弔問客を相手にも事件のことは語ろうとしませんでした。劉?に弟ほどの慎重さがあれば、このようなことは防ぐことができたかもしれません。

 ここでは、劉?の死により南陽劉氏のリーダーは劉秀となったことを押さえておきましょう。

 7月、長安では国師劉?らによる王莽政権転覆の陰謀が露見し、劉縯らが自殺するという事件が起こっています。この時、彼に登用されていた隗囂はたまたま仕事で城外にいたため、長安には戻らず郷里に帰りました。

 ところが、郷里でも安寧はありませんでした。叔父や兄が反乱に呼応しようとしたのです。隗囂は兵は凶事であるとして反対したのですが、反乱を止めることはできませんでした。幸か不幸か、この反乱軍は天水郡の太守を討ち取り、隴西に領土を得ます。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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