2020年02月08日

後漢 昆陽の戦い 王莽が派遣した大軍は大軍故に小回りが効かず、城内と城外からの挟み撃ちにあって大敗、新の運命を決定づける

 劉秀は、王邑、王尋の本営を攻撃します。新軍が攻撃を受けているところを見た城兵も撃って出たことで、新軍の中枢部は挟撃を受けることになったのです。また、劉秀は先頭に立って奮戦したため、兵士たちは劉秀を守れとばかりにこちらも力の限りに戦いました。

 大軍だった新は、臨機応変の対応ができませんでした。いえ、あるいは、兵の数を揃えて優秀な将軍に指揮を採らせていたのであれば、このような寡兵など、鎧袖一触葬り去ることができたのかもしれません。しかし、後漢書によれば、王莽は「能く兵法の為す者63家数百人を徴して並びに以て軍吏と為」(『後漢書〈第1冊〉本紀(1) 巻一〜巻五 - 范 曄, 吉川 忠夫』)したというのです。この数百人が統一された指揮下に置かれたのであれば、現代における参謀本部のような働きができたのかも知れませんが、軍事知らずの王莽のことですから、指揮系統はただただ混乱するばかりでした。船頭多くして船山に登るとは良く言ったものです。

 結局、王尋は対抗しようとはしたもののろくに抗戦もできないまま戦死し、王邑は逃走します。そして、生き残った兵士たちは郷里へ帰りました。

 兵士が故郷に帰って敗戦について語ったことで、地方へも昆陽の戦いの敗戦についての情報が広まりました。それにより、蜀では公孫述が、隴西では隗囂が、といった具合に各地で新からの離脱を図る者が続々と現れます。

 特に、隗囂は王莽討つべしとの檄文を各地に送り、これに応じて更に反乱が起こることになります。

 6月、劉玄は宛に入ってここを都と定めます。そして、功績のあった臣下を封じました。

 この時、劉縯の配下にいた劉稷は抗威将軍を与えられたのですが、就任を拒否します。劉稷は劉縯が挙兵したときから行動を共にし、敵陣を何度も陥落させて、その勇は三軍に冠たると評された猛将です。劉稷は劉玄に対して抱いていた不満を、任官拒否という形で顕にしたのです。
劉玄は劉稷を捕らえ、処刑しようとします。

後漢書〈第1冊〉本紀(1) 巻一〜巻五 - 范 曄, 吉川 忠夫
後漢書〈第1冊〉本紀(1) 巻一〜巻五 - 范 曄, 吉川 忠夫


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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