2020年02月07日

後漢 宛を巡る攻防 劉縯が宛を落としたことを受け、王莽は宛を攻撃すべく100万もの軍を送り出す 新軍は劉秀の籠もる昆陽を囲んだ

 宛の太守が戦死したことで岑彭が戦いを引き継ぐことになりました。岑彭は抗戦を続けましたが、宛城内では食料が尽き、死体を食むほどの惨状を呈します。これでは戦い続けることなどできず、岑彭は遂に劉縯に降伏します。

 この際、劉縯の側近からは降ることなく守り続けた岑彭を処刑すべしとの声があがりましたが、劉縯は「郡の重役だったのだから固く守るのは筋を通したということだ。大事を行うには義士を大切にし、封じることで他の者も降伏する気にさせるのが良いだろう」と言って岑彭を許しました。劉玄は後に岑彭を帰徳侯に封じています。岑彭の名は後に見ることになります。

 宛陥落を受け、王莽は大司空王邑、司徒王尋に実数42万、100万と号する空前の大軍を授け、宛攻撃に向かわせます。

 新軍は宛の北に位置する昆陽を囲みます。

 昆陽を守るのは、劉秀率いる1万足らずに過ぎません。圧倒的な大軍を目の当たりにした兵士たちは動揺しました。実際、このまま籠城を続けていれば、彼らは為すすべもなく押し潰され、殲滅されていたに違いありません。

 不利を見て取った劉秀は、夜中にわずか13騎で城を脱出し、3000の兵を得て昆陽に戻ります。この時、城はまだ持ちこたえていました。

 兵士たちは大軍に怯みます。劉秀は、「今、城に兵糧は少なく、敵は強大である。力を合わせれば功績をたてることもできようが、もし分散してしまえば勢いは失われる。宛が未だ落ちていない中でそのようなことになれば仲間と助け合うこともできず、昆陽が落とされようものならたちまち我々は滅ぼされるであろう。いま心を共にして共に功名を挙げなければ、妻子を守ることすらできぬ」と兵を励まします。

 一方、新軍にも、反乱軍の致命的な弱点を理解する者がいました。将軍の厳尤(本名は荘尤ですが、諱の関係からこう表記されます)です。厳尤は、「昆陽は寡兵で守るとはいえ、固い。帝号を唱える者(劉玄)は宛にあるのだから、宛に大軍を差し向ければ宛の敵は退却せざるを得ないだろう。宛の兵が退けば昆陽は降伏するしか無い」と王邑に説いていました。しかし、王邑は「私は以前、翟義を囲んだが、生け捕りにできなかったために問責されたことがある。今、100万もの兵を率いて城を囲んで、降伏させることができなかったなどと言えようか」と言い、厳尤の策を採用しませんでした。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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