2020年02月06日

後漢 更始政権の顔ぶれ 劉縯こそ大司徒に任じられたものの、中枢は緑林勢力で固められ、劉秀は偏将軍とされたのみで冷遇される

 反乱を率いて来た人々は列侯に封じられました。

 なお、この際に劉縯の弟の劉秀は偏将軍に任じられたに過ぎません。劉縯が宛で挙兵したことが反乱の成功に寄与した影響の大きさを考えると、冷遇と考えておかしくない扱いです。

 劉良が実質の伴わない役職に祭り上げられていることを除けば、南陽劉氏や緑林の徒以外の反乱指導者は端役しか与えられなかったことが見て取れます。これを見ると、劉玄は自分の信頼できるメンバーで周りを固め、同族である南陽劉氏ですら警戒していたことが分かりますね。劉縯が皇帝即位の際のライバルだったことを考えれば、自然な成り行きかもしれません。

 3月、王莽は太師王匡、更始将軍廉丹に30万の軍を授けて赤眉を攻撃させようとします。王匡らは無塩の反乱を鎮圧するといった功績はあげたのですが、進軍中に好きなように略奪させたため、民衆は「赤眉に遭っても太師には遭うな、更始には殺されるぞ」と言って、反乱軍よりもむしろ官軍を恐れる始末でした。

 なお、王匡は無塩を屠った後に赤眉の別働隊を攻撃しようとします。廉丹は兵士が疲れていることを理由に反対したのですが、王匡は忠告を聞かずに攻撃に向かい、やむなく廉丹も同行します。しかし、廉丹の予想通り、疲れの抜けきっていない新軍は赤眉に敗北を喫します。

 廉丹は逃げようとする王匡に向かって「お前のような青二才は逃げることもできようが、俺はそうは行かぬ」と言うと、印と符節を渡し、踏みとどまって戦死しました。

 王匡ら新軍の生き残りは国将哀章の援軍を得て洛陽へ入りました。

 新体制を固めた劉玄は、翌月に当たる23年3月、領土を拡大すべく劉秀を北方に派遣します。

 劉秀は期待に応え、3月には昆陽を、続いて定陵などを攻略していきます。

 また、並行して劉縯は宛攻略に向かいました。その真摯ルートに有る棘陽県を攻略したことで、棘陽県の長だった岑彭などの人々も宛に流入します。こうしたこともあり、劉縯が宛を囲むと、宛の城内は飢えに苦しむようになりました。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村