2020年02月02日

後漢 南陽劉氏の反乱 緑林の徒に呼応して、前漢帝室に連なる劉玄、次いで劉縯が反乱に加わる 慎重な劉秀もまた挙兵し、新野を攻める

 古礼に則るという名目で短期間に改革を繰り返して国政を混乱させた王莽が死んだからといって、直ちに太平の世が訪れるわけはありません。

 農民反乱の様相を呈する東方では赤眉、南陽劉氏の加わった緑林、隴西で自立した隗囂、蜀の公孫述を始めとする勢力がありました。彼らが次の天下を巡って争うことになります。その状況について、新滅亡時に既に皇帝を名乗っていた、更始帝こと劉玄を中心に、新滅亡前に時計の針を戻して辿ってみることにします。

 新滅亡につながる反乱のきっかけは、後17年の呂母の乱でしたね。これに赤眉や緑林といった、農民反乱の性格を色濃く持つ集団が呼応していたのでした。

 その中でも頭角を表してきたのが、前漢の景帝を祖とする南陽劉氏です。侠客を集めていた劉玄は身を隠しているときに反乱に遭遇、緑林の分裂した一派と合流してリーダーとなっていたのでした。

 後22年、劉玄と同じく南陽劉氏の劉縯が蜂起します。劉縯も劉玄と同じように、侠客を集める豪傑タイプで、弟の劉秀が農作業に勤しんでいるのをバカにしていました。当初は人集めに苦労したのですが、10月には慎重な性格の劉秀が舂陵で反乱に参加したことで、多くの者が反乱に加わるようになります。

 この時、劉秀は宛で現地の豪族李通らと共に挙兵しています。この時、劉秀はウマではなく、ウシに乗っていたということで、彼らが武具を揃えて蜂起したのではなく、農民反乱に近い形だったことが見て取れます。彼らは新野の軍事長官を殺し、劉秀のウマを得ました。この一事からも、彼らの懐事情は相当に厳しかったのでしょうね。ウシは畑を掘り起こす労力として使われていましたから、貧しい農民にも得ることができたのです。

 同時に、姉の夫ケ晨も新野で挙兵しています。

 地名に注目してください。新野といえば、王莽が下野した際に隠居した場所です。そして、宛といえば、新野にほど近い大都市です。ということは、劉秀ら一族は、王莽のお膝元で反乱を起こしたということになります。



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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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