2020年02月01日

新 後世の評価 後漢はその成立の事情から新には批判的だった 前漢末から再統一までで、人口は6000万人から2000万人に急減している

 新が滅亡した後に成立した後漢は、その成り立ちから新には極めて批判的です。そのため、私達が利用できる史料はそもそも過度に王莽に批判的だろうと予想されます。

 その後漢時代に生き、漢書を編纂した班固は、王莽が国政を補佐していた時については国家のために力を尽くし、まっすぐな行いをしたと評価しています。

 もし王莽が皇帝になるという野望を持たず、周公旦のように皇帝を支える存在であり続けようとしたのなら、或いは彼の名は有能な名臣として残ったのかも知れません。

 しかし、現実には、王莽は中国を一度破滅に導きました。その破滅は、信じられないほどの規模でした。
前漢最後の皇帝平帝の時代に戸籍調査が行われており、そこでは中国の人口は6000万人に達していました。しかし、新が崩壊して後漢が成立した時には2000万人にまで減少していた、というのです。王莽が妄想に近い理想を追い求め、その現実から遊離した理想を崩壊させるために4000万人の血を必要とした、ということになります。

 ただ、グリーン革命が起こる前の中国において、6000万人もの人口を社会が抱えることは困難だった、という側面もあるのでしょう。三国時代も人口が急減した時代ですが、やはり6000万人を超える人口を抱える超大国が崩壊していきます。そうしたことはあるとしても、人災の側面は強調してもし足りないのは間違いないでしょう。

 王莽への低い評価は日本でも同様で、『平家物語』はかの有名な「祇園精舎の鐘の声」で始まり「たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」一節に続いて、「遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱?、唐の禄山、これらは皆旧主先皇の政にもしたがはず、楽しみをきはめ、諌めをもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の憂ふる所をしらざりしからば、久しからずして、亡じにし者どもなり」と中国の佞臣を非難する、その2番目に王莽の名前が見えますね。

 私は王莽が暗君とされる理由があり、同時に君主制の問題が凝縮されているように思われてなりません。

 唯一溜飲が下がるのは、その長い長い死者の名の列に、王莽の名も含まれていることでしょうか。

 では、次回からは王莽亡き後の世界について見ていこうと思います。


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2020年02月02日

後漢 南陽劉氏の反乱 緑林の徒に呼応して、前漢帝室に連なる劉玄、次いで劉縯が反乱に加わる 慎重な劉秀もまた挙兵し、新野を攻める

 古礼に則るという名目で短期間に改革を繰り返して国政を混乱させた王莽が死んだからといって、直ちに太平の世が訪れるわけはありません。

 農民反乱の様相を呈する東方では赤眉、南陽劉氏の加わった緑林、隴西で自立した隗囂、蜀の公孫述を始めとする勢力がありました。彼らが次の天下を巡って争うことになります。その状況について、新滅亡時に既に皇帝を名乗っていた、更始帝こと劉玄を中心に、新滅亡前に時計の針を戻して辿ってみることにします。

 新滅亡につながる反乱のきっかけは、後17年の呂母の乱でしたね。これに赤眉や緑林といった、農民反乱の性格を色濃く持つ集団が呼応していたのでした。

 その中でも頭角を表してきたのが、前漢の景帝を祖とする南陽劉氏です。侠客を集めていた劉玄は身を隠しているときに反乱に遭遇、緑林の分裂した一派と合流してリーダーとなっていたのでした。

 後22年、劉玄と同じく南陽劉氏の劉縯が蜂起します。劉縯も劉玄と同じように、侠客を集める豪傑タイプで、弟の劉秀が農作業に勤しんでいるのをバカにしていました。当初は人集めに苦労したのですが、10月には慎重な性格の劉秀が舂陵で反乱に参加したことで、多くの者が反乱に加わるようになります。

 この時、劉秀は宛で現地の豪族李通らと共に挙兵しています。この時、劉秀はウマではなく、ウシに乗っていたということで、彼らが武具を揃えて蜂起したのではなく、農民反乱に近い形だったことが見て取れます。彼らは新野の軍事長官を殺し、劉秀のウマを得ました。この一事からも、彼らの懐事情は相当に厳しかったのでしょうね。ウシは畑を掘り起こす労力として使われていましたから、貧しい農民にも得ることができたのです。

 同時に、姉の夫ケ晨も新野で挙兵しています。

 地名に注目してください。新野といえば、王莽が下野した際に隠居した場所です。そして、宛といえば、新野にほど近い大都市です。ということは、劉秀ら一族は、王莽のお膝元で反乱を起こしたということになります。



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2020年02月03日

後漢 古代の人口問題 前漢末の人口は59,594,978人、前漢初の2000万人から3倍増で、急速な人口拡大は社会問題を生み出す

 南陽劉氏は郡内の有力な一族と通婚し、豪族となっていたので、この時に加わった人々は呂母の乱に加わった悪少年(失うもののない、農家の次男以降の男子)とは少々その性格を異にします。

 当時の豪族は大土地所有者で、同族で結集していただけではなく、賓客を養っていました。前漢の後期には、これら大土地所有者と貧農の差が開いてきます。

 原因の1つには大幅な人口増加がありました。平帝の時代に戸籍調査が行われ、59,594,978人だったと記録が残ります。戸籍調査の目的は税金の徴収ですから、税を払うことのない奴婢や国内居住の異民族、宦官などは含まれていません。そのような瑕疵があるので、実際にはこれを大きく上回るのではありますが、人口を6000万人と考えておきましょう。

 これ以前に正確な人口調査記録はありませんので、推測に頼らざるを得ないのではありますが、戦国時代の人口について、『貝と羊の中国人 (新潮新書) - 加藤 徹』は各国の兵力を元に約2000万人との数字を弾いています。ここではこれを信じるとしましょう。

 ということは、前漢のおよそ200年間で人口は3倍にも増えたのです。比率で言えば、1年ごとに0.55%ずつ人口が増えた計算です。

 当然、増えた人口を維持することが必要です。しかし、人口が増えるとそれに比例して同じだけの肥沃な土地が生まれるわけはありませんよね。農地の開墾が必要となるわけですが、なぜ未開墾の土地があるのでしょうか。それは、水源から遠かったり、日当たりが悪かったり、土壌が痩せていたりと、農業に向いていないからです。そこを開墾しても、得られる農業収集はたかが知れています。

 土地を放棄した者は大土地所有者のもとへ流れ込み、大土地所有者はその抱える人数で収入を上げていく、というわけです。こうした理由で、国が安定すると人口が増え、貧富の差は激しくなります。動乱の時代では、大金持ちは真っ先に農民反乱のターゲットとなりますからね。

貝と羊の中国人 (新潮新書) - 加藤 徹
貝と羊の中国人 (新潮新書) - 加藤 徹


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2020年02月04日

後漢 劉縯の反乱 豪傑タイプの劉縯が反乱を起こそうとしても周囲は怯え、慎重な劉秀が加わることで反乱に参加する者が増える

 王莽は一定以上の土地所有を禁じ、奴婢も規定数を上回る者からは没収しました。また、土地の売買を禁止し、貧富の差が開かないようにしました。ところが、厳しく取り締まった結果、富裕層での不安が高まったため、後12年には法律は廃止され、土地売買契約は許されるようになっています。

 豪族からすれば、王莽政権はいつまた自分たちの財産に食指を伸ばしてくるか知れたものではありませんでした。特に劉氏の血を引く者は、血筋としても、豪族としても、王莽に反対だったのです。

 特に、南陽では豪族が強く、舂陵侯の一族を擁して漢の復興を考える者が多くいました。ただ、血縁だけが蜂起に参加する者が多かった理由ではありません。劉縯は豪傑タイプで遊侠を多く集めてはいましたが、民衆の支持は集めていませんでした。劉縯が兵を集めようとしても、「劉縯が我々を殺そうとしている」といって逃げる者が多くいましたが、劉秀も反乱に参加したことから、劉縯は多くの衆を集めることができたそうです。

 劉秀は劉縯らに合流し、劉縯は更に新市、平林の反乱軍と連携します。こうして、別々に挙兵した劉玄と劉縯・劉秀兄弟たちが合流しました。

 彼らは湖陽や棗陽で新を相手に勝利を得たことで勢いを得て、宛を攻撃しようとします。しかし、南陽の反乱鎮圧のために派遣された新軍と遭遇、大敗を喫してしまいます。この敗戦で劉縯の弟の劉仲、ケ晨の妻で劉縯たちの妹の劉元を始め、同族で数十人が戦死するという大敗でした。

 新市、平林の軍は動揺し、解散を考えるに至りますが、劉縯の交渉により王常たちの率いる下江の軍と合流を果たしたことで何とか態勢を立て直します。しかし、宛では劉?や反乱に参加した者の縁者が多く処刑されました。

 こうして復活を遂げた南陽の反乱軍は新軍を破り、10万余りにまで勢力を拡大します。



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2020年02月05日

後漢 更始帝即位 緑林の徒は新と対抗するために皇帝を立てることにし、議論の結果劉玄が即位する

 大組織となった彼らが必要としたのは、しっかりとした組織です。繰り返しになりますが、この反乱軍は食い詰めた悪少年が起こしたようなものではありません。大土地所有者の皇族をリーダーに据えた反乱軍です。当然、無秩序にあるところから奪う方式は彼ら自身の利益と背反するのです。

 新組織は、新に代わりうるものとする必要があります。では、新に取って代わる存在であることを最も簡単に示すことと言えば何でしょうか?それは、新とは別の皇帝を戴くことです。

 「天に二日無く、地に二王無し」と言います。これは2番目に王を名乗る者は先に王を名乗った者に挑戦しているため、どちらかが倒れるまで戦いが止むことはないことを表しているわけです。

 問題は、誰が皇帝となるか、です。南陽の諸豪族と下江の指導者たちは劉縯を、新市や平林の指導者は劉玄を推します。

 議論は平行線を辿ります。ただ、ここで喧嘩別れしてしまえば、反乱軍の勢力が弱まることになってしまいます。劉?は「赤眉も既に皇帝を立てているだろうから、今は王を立てるに留め、赤眉の立てた者が賢者なら服属し、そうではないなら王莽を破ってから皇帝を立てても遅くはあるまい」と主張し、棚上げを提案しました。

 一旦はこの案が受け入れられそうになったのですが、新市のリーダーの1人張卬(ちょうぎょう)が剣を抜き、地面を斬りつけながら「このような会議は2度もやるようなことではない」と、結論を出すことを求めたため、結論を出すことが決まります。

 最終的には、劉縯が即位すると緑林の徒の影響が弱まることを恐れた緑林軍の推す劉玄に対し、劉縯が身を引いたことで劉玄が皇帝となり、元号を更始と定めます。これが更始帝です。

 更始帝政権の顔ぶれを見ておきましょう。南陽劉氏の長老、劉良が国三老となり、新市の指導者王匡が定国上公、王鳳は成国大公となりました。そして三公は、大司馬が朱鮪(しゅい)、大司徒に劉縯、そして平林の指導者陳牧が大司空です。反乱を率いて来た人々は列侯に封じられました。


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