2020年01月27日

新 荊州でも反乱 20年、今度は江夏郡の緑林で反乱軍が蜂起、地名から緑林の徒と呼ばれる 王莽は討伐軍を送るが、敗北する

 後20年、荊州でも同様に反乱が起こります。こちらは江夏郡雲杜緑林で蜂起したことから、緑林の徒と呼ばれます。緑林も当初は数百人という規模だったのがです、数カ月で数千人に膨れ上がります。

 王莽は荊州牧に攻撃させましたが、こちらも敗北を喫しました。

 「牧」の役職は、三国志をお好きな方には馴染み深いものでしょう。元々、牧は武帝の時代に制定された刺史という、検察を司る役職でした。しかし、監察を受ける郡守2000石、刺史600石と全く釣り合いが取れず、効果が限定的でした。そこで、前8年に成帝が2000石に改め、合わせ名称を牧に変更しました。ただ、官爵名は刺史と牧を行き来することになり、おまけに監察だけではなく行政にも職権が拡大していきますので、ややこしいことこの上ありません。

 とりあえず、ここでは州という最大行政区分の軍が反乱軍鎮圧に失敗したことを理解しておきましょう。

 官軍が敗北したことは反乱に加わる者の増加に繋がり、後21年には緑林の勢力は5万余りまで拡大します。王莽は太師景尚と更始将軍王党を派遣したのですが、主将の景尚が戦死するという大敗を喫します。

 王莽は改めて太師王匡、更始将軍廉丹に10万余りの大軍を率いさせて出撃させました。ところが、民衆はむしろ反乱軍に同情的でしたので、様々な便宜を図りました。それもあり、なかなか新軍は反乱軍を補足できません。

 22年冬、新軍は成昌で赤眉と会戦に至ります。この時、赤眉軍は敵と味方の区別をつけるため、眉を赤く塗りました。赤眉の名の由来はここにあります。意気上がる赤眉と新軍の戦いは、廉丹は戦死、王匡は敗走するという、新軍の大敗で幕を下ろしました。

 成昌の戦いで勝利した赤眉は10万を越える勢力に成長しました。また、同年には呂母が病死したため、その軍もまた赤眉に合流したことで大勢力となりました。勢力を増した赤眉は、莒の町を包囲します。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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