2020年01月26日

新 東方で反乱続発 18年、東方で飢饉がきっかけとなって反乱続発 インフレで流通が破壊されていたため、被害は悪化の一途を辿った

 仕事に対して人口が増えすぎるとこのようなことになります。特に農本主義の場合には、「安定した生活を寄越せ」が「土地を寄越せ」と等号で結ばれます。なにせ、農業が本業になり、他にロールモデルがありませんからね。このような理由で、この集団は農民反乱としての様相を呈していきました。

 ただ、これに関しては王莽にも大いに同情の余地があります。漢の200年の間に、人口が増えすぎたのです。土地をよこせと言われても、与える土地などどこにもありませんでした。ということは、反乱軍は力ずくで奪う以外に手段は無かったとも言えます。

 事態を悪化させたのは、翌年の後18年に東方で発生した飢饉です。食い詰めた若者が大勢いるという状況での飢饉に、食いっぱぐれ、流民化した農民たちによる反乱が続発します。

 飢饉のうち、少なからずは天候不順など人間にはコントロールできない要因が原因です。しかし、広大な帝国では、その領土のどこかでは天災や天候不順が起こるものです。きちんと食料を備蓄し、あるいは流通を整備していれば、ある程度の災厄にも対応できたはずです。にもかかわらず飢饉が広まってしまったのは、王莽の失政の結果と言われます。インフレで流通が麻痺していたと思えば、それも当然でしょう。

 反乱を起こす集団は、最初はいずれも100人単位でした。しかし、数百人でできることなたかが知れています。地方の小役人でも討伐できるレベルでしょう。そこで、反乱を起こした者たちは徐々に結集し、一年後には数万にまでその規模を拡大しました。

 この巨大化した反乱軍は、後述の理由により赤眉と呼ばれます。琅琊の樊崇らが首魁でした。興味深いのは、樊崇らが「三老」を名乗ったことです。三老とは、秦代に制定された各地方の現地リーダーのことでしたね。漢はこの制度を受け継ぎましたが、新は廃止していました。廃止された三老を名乗ったということは、新を認めず漢へのシンパシーを示したものです。

 赤眉軍が後に示す行動を理解するためにも、彼らが当初から漢の復興を図っていたかのような振る舞いを見せたことを覚えておいてください。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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