2020年01月21日

新 骨抜きにされる改革 古礼に従って商工業者の利益を抑えようとしたが、ノウハウが無いためかえって失敗 関係の悪化した匈奴への出兵

 銅の採掘を自由にすれば、呉楚七国の乱における呉王劉濞のように自ら銅銭を鋳造する者が現れますから、当然のことでしょう。私鋳を許せば貨幣がだぶついてこれまたインフレーションが起こる可能性がありますし。

 また、物価統制として、各地に五均官を置いて季節ごとに標準価格を決めさせようとしました。新の物価統制は、漢で実施された均輸法、平準法を拡大したものです。

 新は農本主義を採用していましたから、農民を圧迫するような大商人に否定的でした。特に商工業者が暴利を得ることを防ぐ目的でしたから、儒家的な思想、特に周礼に合致する政策です。

 ただ、国の専売対象を広げたり、規制を強化することは国家が利権を抱えるようになることを意味します。そのため、国が民と利益を争うとの批判があったそうです。

 法律を骨抜きにしてしまったのは現実です。国家がある日突然金融業に乗り出そうとしても何のノウハウもないのですから、地方では実務を理解する大商人に頼らざるを得ないのです。規制対象としたい大商人に帳簿を預ければ、不正などやりたい放題ですね。案の定、大商人はカラ帳簿で規制に対抗し、法律を骨抜きにしてしまいました。いえ、それどころか、大商人のやりたい放題が国のお墨付きになったようなものですから、人々はますます苦しむようになったのでした。

 同じく10年には、関係の悪化した匈奴へ出兵が行われます。

 匈奴との紛争は印綬だけが原因ではありません。新成立に先立つ後2年、漢と匈奴で約定が結ばれます。その条項に、中国人で匈奴に逃亡するもの、烏孫から匈奴に投降する者、漢王朝の印綬を受けた国から匈奴に投降する者、烏桓から匈奴に投降する者の受け入れを匈奴は拒否すべきことがありました。

 ところが、この後に烏桓が匈奴の影響下から離脱しようとして、匈奴の攻撃を受けて傘下に戻るということが起きます。印綬交換の際、烏桓人がいるのを目にした新の使者は、烏桓人を故地に返すよう要求しましたが、匈奴は拒否しました。


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2020年01月23日

新 西方諸国の離脱 遠征軍は戦いを始める前に崩壊、屍が虚しく野に散らばる 匈奴攻撃と同時期に行われた高句麗遠征の顛末

 果たして、兵士たちは食料不足から西方までは行ったものの出撃はできず、戦いが起こる前に病で次々に死者が出て、虚しく荒野に屍を晒すという惨状を呈しました。そして、高句麗は王莽の要請を無視して軍を動かしませんでした。

 新の体たらくを見た西域諸国は新から離反します。そのうち、カラシャールは挙兵して西域都護を殺しました。王莽は新たに西域都護を派遣したのですが、これもカラシャールに殺されてしまいます。新がこの狼藉に対処できなかったことを見た西域諸国は、全て新から離脱しました。

 外征は西方だけではありません。匈奴攻撃がまだ撤回されるより前に、王莽は高句麗征伐の軍を送っていました。

 高句麗は漢王朝末期に外藩となっていたため、新からの要請があれば出兵する義務を負っていたにも関わらず、前述の通り高句麗が無視したことが大義名分となりました。いえ、高句麗はそれどころか、中国の北東部に侵入して遼西の太守を攻殺する始末です。

 新軍はこちらでは強さを見せ、高句麗王の騶は討たれて首は長安に運ばれました。王莽は高句麗の名称を下句麗と変えています。ただ、このブログでは王莽の独りよがりで幼稚なことには付き合いたくないので、このまま高句麗と表記を続けます。

 高句麗は勢力を後退させましたが、新に屈することはなく、反乱は継続されました。

 対外戦だけを見れば1勝1敗ではありますが、西方では西域諸国の服属を丸々失ったわけですから、新のダメージは大きなものでした。

 後13年、不本意ながらも漢王朝簒奪への道を拓くことになった王太后が死去ます。84歳でしたから、年齢的には大往生と言えるでしょう。もっとも、彼女は全く望むことのなかった漢の滅亡を、それも自分の一族が滅ぼす姿を見てからは楽しめなかったようで、幸せな晩年ではありませんでした。

 王太后は夫の元帝が眠る渭陵に葬られます。

 ところが、漢王朝と王太后の関係を断ち切ろうとした王莽は、わざわざ墳丘を別にし、元帝の墳丘との間に溝を設けるほどでした。儒家で復古主義者の王莽に、伯母の願いを無視するどのような古代の例があり、儒教のどのような教えに合致するのか聞いてみたくなります。


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2020年01月24日

新 貨幣改革(何度目だ) 過去の貨幣改革の失敗を受け、後14年にまたもや貨幣改革を行う 後17年、民衆の鬱憤は呂母の乱として爆発する

 14年、王莽は貨幣改革を行います。

 またか!と思われた方、私も同感です。こんな短期間で制度をころころと変えられても、民草は困るばかりではありませんか。それでも改革が強行されたのは、端的に言ってしまえば過去の改革が大失敗だったからに他なりません。

 今回の改革では、大銭、小銭も廃止され、代わりに貨布と貨泉が制定されました。貨泉は5銖で円形方孔ですから、5銖銭と同じですね。刻された文字だけ異なるものでした。貨布は25銖で、125銖の価値を持つとされました。

 盗鋳は死刑、古い貨幣を使う者は流罪、非難する者も同罪というのですから、かなり厳しい罰ですね。しかも、犯罪を犯した者の近隣5軒も同罪とされました。後には量刑が緩められ、違反者は官の奴婢とするか、労役刑となりました。量刑が緩められたのは、罪を犯す者が続出したからです。名目価値と実質価値が違うのですから、当たり前ですよね。今回の貨幣改革でも、その肝心な部分は改められませんでしたから、盗鋳は当然の結果ですし、今回の貨幣改革もまた失敗に終わることが約束されていたと言えるでしょう。

 儒家思想を推し進めようとしてきた王莽が、ここだけは法家的な法律を定めたのは大変に興味深いことです。

 要するに、これまでの貨幣改革が失敗だったので、旧に復することを決めた、ということです。実際、インフレで政府への不満は高まっていました。だからこそ、古い貨幣を使うことに厳罰を適用してまで対策を取らなければならなかったのでしょう。

 なお、布泉はそれなりに発行されたらしく、当時の九州の遺跡からも発見されています。

 しかし、時は既に遅かったようです。

 17年、呂母という女性が地方で騒乱を起こすと、新への溜まりに溜まった不満が爆発、大反乱となったのです。

 呂母は姓名の表記ではありません。劉邦の母が劉媼、つまり劉(邦)のおばさんと呼ばれたのと同じように、呂母は呂のお母さん、くらいの呼び名です。



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2020年01月25日

新 呂母の乱 些細な罪で処刑された呂の母親は悪少年を抱き込んで反乱を起こす 悪少年とはどのような人々か

 なぜ、「呂のお母さん」としか表記されないような、名家の生まれでもない女性が反乱を起こしたのかというと、単なる私怨です。

 これに先立つ後14年頃、呂母の息子が微罪で海曲県の県宰に処刑されていました。呂母は県宰に復讐することを決意します。とはいえ、彼女には何の力もありません。ただ、彼女には金はありました。

 呂母は多くの資産を持つ富豪で、酒屋を営んでいました。彼女は密かに刀剣類を集め、平行して酒を買いに来る若者には掛売りしたり貧しい者には衣服を与えたりして恩を売りました。やがて、家財が尽きます。若者たちは酒代を返そうと呂母のところに集まりました。しかし彼女は掛売りの支払いを求めるのではなく、涙ながらに若者たちに復讐の助力を頼んだのです。

 もし相談を持ちかけられた「若者」が、今日の私達が想像するような、若く元気な大学生くらいの存在であれば、このような相談は通報、逮捕、裁判、処刑という決まりきったルートを辿ったことでありましょう。

 しかし、この若者というのは、亡命者や当時悪少年と呼ばれた存在です。その母体となっているのは農家の次男以降の男児です。彼らには継ぐべき家や土地がありません。都市に流入し、その日暮らしの生活を送っている者たちでした。

 失うものなどなにもない悪少年たちは意気に感じ、彼女に協力することを誓いました。呂母の下には数千人の悪少年を集め、海曲県を攻撃して県宰を捕えてその首を息子の墓に捧げました。こうして彼女の復讐は成就しました。

 呂母の行動は反逆に他なりませんが、不思議なことに復讐そのものは認められていたため、王莽は呂母の行動を咎めず、許して解散させようとしました。

 しかし、呂母たちは解散せず、新へ反旗を翻したのです。

 なにせ、呂母の下に集った亡命者や悪少年たちは、落ち着いても何も残らないのです。それよりもむしろ、反乱を継続して奪えるものを奪うほうが、豊かになれるのです。特に、貨幣改革の失敗に起因するインフレーションは、若者たちを反乱に誘う要因となったことでしょう。


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2020年01月26日

新 東方で反乱続発 18年、東方で飢饉がきっかけとなって反乱続発 インフレで流通が破壊されていたため、被害は悪化の一途を辿った

 仕事に対して人口が増えすぎるとこのようなことになります。特に農本主義の場合には、「安定した生活を寄越せ」が「土地を寄越せ」と等号で結ばれます。なにせ、農業が本業になり、他にロールモデルがありませんからね。このような理由で、この集団は農民反乱としての様相を呈していきました。

 ただ、これに関しては王莽にも大いに同情の余地があります。漢の200年の間に、人口が増えすぎたのです。土地をよこせと言われても、与える土地などどこにもありませんでした。ということは、反乱軍は力ずくで奪う以外に手段は無かったとも言えます。

 事態を悪化させたのは、翌年の後18年に東方で発生した飢饉です。食い詰めた若者が大勢いるという状況での飢饉に、食いっぱぐれ、流民化した農民たちによる反乱が続発します。

 飢饉のうち、少なからずは天候不順など人間にはコントロールできない要因が原因です。しかし、広大な帝国では、その領土のどこかでは天災や天候不順が起こるものです。きちんと食料を備蓄し、あるいは流通を整備していれば、ある程度の災厄にも対応できたはずです。にもかかわらず飢饉が広まってしまったのは、王莽の失政の結果と言われます。インフレで流通が麻痺していたと思えば、それも当然でしょう。

 反乱を起こす集団は、最初はいずれも100人単位でした。しかし、数百人でできることなたかが知れています。地方の小役人でも討伐できるレベルでしょう。そこで、反乱を起こした者たちは徐々に結集し、一年後には数万にまでその規模を拡大しました。

 この巨大化した反乱軍は、後述の理由により赤眉と呼ばれます。琅琊の樊崇らが首魁でした。興味深いのは、樊崇らが「三老」を名乗ったことです。三老とは、秦代に制定された各地方の現地リーダーのことでしたね。漢はこの制度を受け継ぎましたが、新は廃止していました。廃止された三老を名乗ったということは、新を認めず漢へのシンパシーを示したものです。

 赤眉軍が後に示す行動を理解するためにも、彼らが当初から漢の復興を図っていたかのような振る舞いを見せたことを覚えておいてください。


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