2020年01月16日

新 禅定 翟義の反乱を鎮圧した王莽は、次から次へと奇跡をでっち上げて帝位を奪う 中国初の禅定劇がここに成立

 同年12月、王邑、孫建らは反乱軍を破り、反乱を主導した翟義は磔にされ(生きたままだったのか、自殺後の死体だったのか、どちらとも解釈できる状況です)、劉信は軍を捨てて逃亡しました。王邑らの遠征軍はとって返して王級らと合流、趙明らの反乱軍を攻撃します。こちらもほどなくして鎮圧されました。

 なお、王邑は首謀者全員を生け捕りにすることができなかったことで、王莽から厳しい叱責を受けます。これが後になって新に暗い影を落とすことになります。

 反乱が短期間で片付くと、いよいよ王莽は最大の野望を叶えるべく、動き出します。

 斉の都の臨淄で亭長の辛当なる者が、天公の使いを名乗る老人が夢に現れ、「漢の火徳が衰えたので、安漢公が天子となるべし。この亭に新しくできている井戸がその証である」と告げ、事実翌朝には井戸ができていた、といったような吉兆とやらをでっちあげます。

 讖緯説が信じられていた当時にあって、阿諛追従の徒が行った露骨な迎合も、天が示した意思と考えられます。

 更に簒奪に決定的だったのは、哀章なる者が高祖廟に捧げた2つの銅匱です。1つは「天帝行璽、金匱図」、もう1つには「赤帝行匱、邦、皇帝の金策書を伝え予う」と表記されていました。これを金匱策書と呼び、前者は天帝が、後者は漢を興した劉邦が王莽に与えた符命であることを意味します。

 さらに、その匱の中には「王莽、真天子と為れ」と記されていました。王莽の天下で大臣となるべき者の名や哀章らの名前が官爵付きで記されていたそうなので、幾らなんでも露骨だなあと思ってしまいます。

 こうして着々と準備を整えた最終段階が、禅譲劇です。

 後8年、王莽は皇帝即位の儀式を執り行います。王莽は劉嬰の手を取って涙を流しながら「いま予は独人、天の命に迫られ、そのとおりにしなければなりません」と言うと、劉嬰を殿上から下ろして北面させ、臣と称させました。

 ワニの涙は空涙と言われますが、そのワニですら歯が浮くよう白々しいセリフですね。

 こうして、神話時代の堯から舜への禅譲を除けば、中国史上で始めて放伐ではなく禅譲によって王朝が変わったのでした。


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2020年01月17日

新 簒奪に反対した女たち 王太后や王莽の娘で廃立された劉嬰の妻は漢の滅亡を喜ばず、鬱々と過ごすことになる

 漢王朝は悪政で命脈が尽きたわけではありませんが、幼帝が続いて大帝国を統治するだけの力を失っていましたから、平和裏に皇帝が変わるのであれば、それはそれで良いことだったのかも知れません。

 簒奪に最も激しく反対したのは、太后王政君です。彼女は詔制臨朝にあたっていたため、秦が滅んだ際に漢に伝えられたという伝国の玉璽を持っていました。日本で言うところの三種の神器に相当する、皇帝を継いだことを象徴する道具です。

 王莽は太后のもとへ側近の王舜を送り、玉璽の引き渡しを要求します。

 太后は「私達の一族は漢家の力で代々富貴になったのに、恩に報いずに国を奪おうとしている。このような最低な人間にはイヌやブタも寄り付かない。漢家の独り身の老婆を玉璽とともに葬ってほしかったが、それも叶わぬ」と激しく王莽を罵りました。そして、「私が老いて死んだ後、お前の兄弟たちは全て族滅するだろう」と罵ると、握りしめていた伝国の玉璽を投げつけました。この時、竜の角が欠損したと伝えられます。

 こうして抵抗虚しく玉璽は王莽の手に渡ったのでした。

 王莽は即位すると、太后に新室文母太皇太后なる称号を与え、元帝の廟を壊して造った宮殿に王太后を住まわせます。元帝といえば、太后が嫁いだ相手でしたね。王莽はこの宮殿で、王太后のために宴席を設けたのですが、王太后は「漢の宗廟が壊されている横で酒食を取ることはできない」と言って、楽しまずに宴席から離れました。

 簒奪を快く思わなかった王一族は、王太后ただ1人ではありません。王莽の娘で平帝に嫁いでいた王皇后も同じです。

 廃された劉嬰が定安公とされたことに伴い、王莽は娘の号を黄皇室主とかえ、再婚させようと考えます。皇太后の号のままでは釣り合う身分の者がいませんからね。そして立国将軍の孫建の息子の見舞いに着飾らせて赴かせましたが、彼女は立腹のあまり病を発してしまいます。ほぼ寝たきりで生活を送るようになった娘に王莽も何も言えず、彼女は一人で過ごすことになります。


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2020年01月18日

新 王莽人事 金匱策書に基づいて、金匱策書をでっち上げた哀章や、美名というだけの王盛、王興が抜擢される

 さて、王莽は即位すると、早速人事を固めるのに合わせ、官制改革を行いました。特筆すべきは、哀章の金匱策書の符命を実現することを前提に改革が行われたことでしょう。

 新たな官制でトップとなったのは、4輔(太師、太傅、国師、国将)、3公(大司馬、大司徒、大司空)、4将(更始将軍、衛将軍、立国将軍、前将軍)です。

 このトップ人事が金匱策書に従って行われたのです。

 太師には王舜、太傅には平晏、国師には劉歆が任じられました。ここまでは良いでしょう。王舜は王莽の腹心で、玉璽回収を任された人物ですし、劉歆は学者として名高く王莽が招聘した人物です。また、平晏はこれまで触れていませんでしたが、父は丞相の平当で本人も尚書令や少府などを歴任してきた重鎮です。問題は、国将となった哀章です。

 哀章は金匱策書を発見した、という人物でしたね。もちろん、このようなものが自然にできあがるはずはなく、哀章がでっち上げたものです。讖緯説だけを出世の手段にするような輩が、いきなり国家の重鎮になってもまともな仕事などできません。放埒ぶりだけは群臣の中でも頭抜けていましたが、能力不足は明らかでした。しかし、王莽は自分が皇帝になれたのは哀章のでっちあげのお陰だったこともあり、哀章を罰すようようなことはありませんでした。

 金匱策書に基づいて、何の功績も無いのに抜擢されたのは、何も哀章ただ1人ではありません。哀章は、(厚かましくも自分の名前を加えた他は)基本的に王一族や政府高官の名前を記載していたのですが、例外として王という姓に良い響きの名前を加えた王盛、王興という名前がありました。

 これらの名前は王一族には無いものでした。そこで、王莽はこの名前を持つ下級官吏や庶民を探し出し、衛将軍、前将軍に就けたのです。どうやら、王莽の懐疑心は息子を殺すことにしか役に立たなかったようです。世界一役に立たない能力ではないでしょうか。



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2020年01月19日

新 名称変更 三公を始めとする役職名、行政区画、地名に加え、外国への印綬も中国に服属するような表現に変更される 

 大司馬、大司徒、大司空の3公は漢初の丞相、御史大夫、太尉に相当する役職です。大尉は武帝の時代に廃止され、大司馬がその役割を担っていました。衛青や霍去病、後に霍光ら、錚々たる人物が就いてきた役職で、最高の輔政者でした。特に、霍光の独裁によって丞相の地位が形骸化して名誉職へと変わっていく過程で、大司馬の役割は拡大されました。哀帝期に丞相が大司徒へ、成帝の末年から御史大夫が大司空へとその名を変えています。

 その他の官位名も、例えば大司農が義和というように、全て変更されました。

 また、地方の行政区画も変更され、後2年の13州83郡20国1576県から、9州125郡2203県へと大きくその姿を変えられました。改革に合わせて地名も変えられたのですが、その後も頻繁に変更が繰り返され、中には5回変えられて元に戻ったところもあるそうです。

 漢王朝の与えた印綬は新のものと交換されました。交換は国内の文武百官だけではなく、外藩となっていた諸外国にも及びます。この際、何の事前調整もなく、印綬に刻まれた文字を王から侯へ格下げしています。全て、儒教論理の華夷秩序に基づいてのことです。

 例えば高句麗王は高句麗侯に格下げされました。なお、これが中国の史書に高句麗が登場する最初の事例とのことです。

 匈奴に対しては従来の「匈奴単于璽」から、「新匈奴単于章」にしています。「璽」は単于を皇帝と対等の立場として認めたものですが、「章」は臣下に対するものですから、あたかも匈奴が新に服属したかのような格好となったのです。単于印綬の交換と言われた単于は気づかずに受領しましたが、この姑息な工作に気がついて、旧い印綬の返還を求めます。しかし、新の使者は、単于が気がつけば古い印綬の返還を求めるであろうと予測し、既に旧い印綬を破壊していました。

 当然、匈奴を始め、諸外国との関係は険悪化します。王莽の現実を無視した、独りよがりな行動によって外交に致命的な打撃を与えたのですから救いようがありません。


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2020年01月20日

新 繰り返される貨幣改革 前回の改革からたった2年で貨幣改革を行うが、やはり名目と実質の価値が一致していなかったため、盗鋳が相次ぐ

 後9年には貨幣改革を行います。貨幣改革は、まだ仮皇帝だった2年前に行ったばかりでしたね。高額貨幣として契刀、錯刀などを作ったのでした。名目価値が実質価値を遥かに上回る硬貨の制定は大量の偽貨幣を生んでいたのでしたね。

 今回の貨幣改革では作ったばかりの契刀、錯刀に加えて5銖銭を廃止し、代わりに1銖の小銭を鋳造、大銭と併用させました。契刀、錯刀を廃止したのは、劉氏の「劉」の字に「刀」が含まれていることから漢王朝との関係を切ろうとしたもので、動揺に5銖銭は漢が使っていたことが理由です。

 小銭と大銭の2種になったことで扱いやすくはなったのですが、問題は交換レートです。1銖の小銭50で12銖の大銭と等しいとしたことから、やはり大銭は名目価値が実質価値を大きく上回っていたのです。改革にも関わらず盗鋳が相次いだため、王莽は民間に銅と炭の保有を禁じました。

 ……どう考えても、問題の根本はそこではありませんよね。炭の保有すら禁止された民間こそ良い迷惑です。

 更に翌年の後10年には、またもや貨幣改革が行われます。しかも、今度は金、銀、銅、亀甲、貝の6材料を用いた28種の貨幣を制定、大銭、小銭と合わせて30種類にもなる煩雑さでした。当然、流通しません。民間では5銖銭が使われる始末でした。どう考えても改革は短兵急に過ぎ、失敗するとしか考えられませんね。

 理念が極端に先行していた王莽だけは成功を信じていたのかも知れません。社会が良くなると、固く信じていたのかも知れません。なにせ、古礼に従っているのですから。

 しかし、人は理念で動く生き物ではありませんし、社会ももっとダイナミックに動くものです。結局、王莽の貨幣改革は猛烈なインフレーションを生み、経済は混乱に陥ります。混乱はまた、王莽に対する人々の期待も大いに萎ませることになったのでした。

 貨幣改革と並行して、商工業を抑制する政策も取られます。従来から塩、鉄、酒は国家による専売制が取られていましたが、これに加えて貨幣、銅の採掘、金融などを国家の独占にしました。


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