2020年01月11日

新 権力の絶頂へ 王莽は謙譲を装って娘を皇帝と結婚させることに成功し、宰衡なる称号を得、更に九錫を与えられて絶頂期を迎える

 後3年、王莽は自分の娘を皇后にしようとして後宮を充実させるように進言します。ところが、吏が挙げた候補の中には王一族の娘が多くいたため、王莽の娘が選ばれる可能性は高いものではなくなってしまいました。もし王莽の娘以外の王氏の娘が皇后になれば、皇后の父親へと王莽の権力は移ってしまうでしょう。

 そこで、王莽一計を案じ、謙譲を装って「私は徳がなく、娘も優れてはおりませんので、他の子女と一緒に選ばれるほどではありません」と言って辞退しようとします。王太后はこの言葉を嘉して、王一族からは皇后を選ばないよう命じました。

 これに対し、庶民から大臣に至るまで、王莽の娘を皇后にすることを求める上書を提出します。王莽が裏から手を回したのでしょうね。ともあれ、上書を受けて王太后は王莽の娘を皇后に冊立することを認めました。

 晴れて皇帝の義理の父となった王莽には宰衡の称号が与えられました。この聞き慣れない称号は、殷王を補佐した伊尹の役職阿衡と周王を補佐した周公旦の役職太宰から採ったもので、列侯や諸侯王よりも立場が上であることを示すものです。自分の野心を優先させる王莽が、何があっても主君を補佐することを貫いた両名を慕っていたと言われても、何の冗談かと思ってしまいますね。

 この結婚は、王莽の娘にとって不幸でしかないものになっていきます。その悲しい未来はもう少し後に見ることになるでしょう。

 結婚翌年の後5年、王莽の娘が初潮を迎えます。初潮を「子孫の端」と言っていたそうで、王莽はこれを祝って杜陵から漢中まで、子午道と呼ばれる道を作りました。子午道は関中と漢中を結ぶ主要な道路として、この後も長く使われることになります。

 同年5月、王莽へ九命の錫(九錫)が与えられます。これは『周礼』に基づくもので、功績が特別著しい臣下に9種の賜物を与えるものです。この九錫は、簒奪に先立つ儀式として踏襲されていくことになります。

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2020年01月12日

新 讖緯説 平帝の急死直後、「安漢公(王)莽に告げる、皇帝と為れ」と書かれた石が出現 奇跡をありがたがる讖緯説について

 同年12月、年末の大祭の蠟祭(ろうさい)で、神酒を飲んだ平帝が急死します。まだ若い平帝の急死について、漢書は「未央宮で崩ず」と記すのみです。しかし、平帝が王莽に母の衛一族を滅ぼされたことを恨んでいるとの噂を聞いた王莽が毒殺した、と言われます。

 事実がどうかは分かりませんが、まだ若い皇帝の急死と、その死により最大の利益を得たのが王莽であったという状況からすれば、王莽はいかにも怪しく見えます。王莽が鴆毒で平帝を毒殺した、という噂が流れたのも無理はないでしょう。

 未だ次の皇帝が決まらないこのタイミングで、武功の県庁の孟通なる者が井戸を掘ったところ、「告安漢公莽為皇帝」という文字が刻まれた上円下方の石が出現した、との報告が上がってきます。複数の読み方が可能ではありますが、「安漢公(王)莽に告げる、皇帝と為れ」と読めますね。

 現代に生きる私達には、王莽本人の差し金か、王莽の意を汲んだ何者かが仕組んだものか、あるいは王莽に阿って栄達を図ろうとしたものか、そのいずれかが仕組んだこととしか思えません。しかし、当時の人々には、また異なる考えを持っていました。讖緯説なるものです。

 讖緯説とは、予言や神秘を合理的に解釈しようという試みです。「讖」と「緯」は異なるもので、「讖」とは自然現象や、自然現象で生じた文字のこと、「緯」とは未来を予言する文書のことです。現代風に言えばオカルト、ということになるでしょうか。「このままでは世界は滅亡してしまう!」「な、なんだってー!」という会話が古代中国でも行われていたわけです。

 このうち、讖については秦代に隕石に「始皇死して天地分かれる」と書いてあったのを見て、隕石を溶かして近隣の人々を殺してしまった、という話で見ましたね。

 「緯」とは儒教の経典に対応する文書のことです。「経書に真理の大綱が述べられているとすれば、それが未来の国家・社会にいかに現れるかということは、緯書でしるされなければならない」(『秦漢帝国 (講談社学術文庫)』)とまとめられている通り、未来を予言する文書でした。


秦漢帝国 (講談社学術文庫)
秦漢帝国 (講談社学術文庫)


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2020年01月13日

新 儒教国教化 孔子が排除しようとした迷信も取り込むことで皇帝を思想的に受け入れ、儒教は国教化していく

 「経度」という言葉に見られるように経は縦を意味し、緯度が横を意味します。経書が正統な知の流れを経糸に見るならば、未来を見通す神通力を持つ緯書は緯糸として、知は面となるのです。

 半分がオカルトなのに知が面になるなんて言ってどうなるんだ、と思われるかも知れません。しかし、当時の知識階級にとっては、神秘は天がしろしめす意思に他なりませんでした。人為的なものだと一笑に付すなど、とてもできないことだったのです。

 迷信や非合理を語る緯書は、人々の支持の下に儒家の書に入り込んでいったのです。ローマ帝国への怨嗟を終末論に織り込んだ『ヨハネの黙示録』が熱烈な支持を得て聖典に準ずるほどの地位を得たことや、解脱するために執着を捨て修行に励むことを求めたゴータマの思想が念仏を唱えれば救われるというお手軽な宗教に変わっていった仏教と同じようなことが、儒教でも起こっていたのです。

 「怪力乱神を語らず」と語っていた孔丘の思想とかけ離れた考えですね。

 一方、神秘思想を儒教が取り入れたことは、儒教国教化への道を開きます。

 儒教の祖、孔丘が生まれたのは春秋時代でしたね。国々が覇権を争って相争い、周の権威が凋落する時代にあって、諸侯はどう振る舞うべきか、という考えが強い思想です。「皇帝の権威の拠り所が天」という、オカルトがかった制度を受容するには、オカルトがかった緯書を必要としたのです。

 王道思想からオカルト思想へ変貌を遂げた儒学は、儒教として国教となる道を開いたのです。

 王太后は「これは天下の全ての者を欺こうとするものである。広めることなどできません」と、極めてまっとうな反論を行います。王莽の腹心王舜は王太后に、「このような符命が現れたからにはもはや天命に従うしかありません」と説得、ついに王太后も石の権威を認めるしかありませんでした。

 しかし、王舜らが王太后に求めて書かせた詔には、「王莽皇帝に為れというのは皇帝を代行せよの意味」とし、皇帝となることははねのけました。


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2020年01月14日

新 反王莽の動き 王莽は皇帝と同じしきたりで職務や祭祀を行うように為る 後6年、南陽郡で小規模反乱が起こるが鎮圧される

 同月、王莽は宣帝の玄孫のうち最年少である2歳の劉嬰を立てました。

 皇帝が若く無能であればあるほど、漢王朝には不利に働きますが、王莽は権力を壟断できます。そして、王莽のさらなる野心を満たすには、この状況こそが望むものでした。

 王莽は、職務や祭祀はすべて皇帝と同じしきたりで行うようになりました。

 誰もがみな、王莽の専権を快く思ったわけではありません。その不満が最初に爆発したのは後6年のことで、南陽郡の安衆侯の劉崇らが、手勢100余人で南陽郡の大都である宛を攻撃します。宛を押さえれば長安まで近いことから打倒王莽も夢ではなかったかも知れませんが、100余人では宛を抜くことはできず、反乱は失敗に終わります。

 なお、この反乱の後始末において、宗室劉氏に連なる者であっても参加者は処刑されていますが、7歳以下であれば刑に処されることはなかったようです。幼少だったために助けられた劉隆は、後に遠縁の南陽劉氏の反乱に参加しています。

 また、同じ反乱の後始末の過程で、群臣たちは反乱は王莽の権力が軽かったためで、より立場を重くして天下を鎮撫すべきと上奏しました。王太后は王莽に、上奏する際には仮皇帝を名乗らせることと決め、他の者には摂皇帝と呼ばせるようになります。

 同年、西羌へ遠征軍が送られます。

 これより前、西羌の一部有力者は後4年に王莽から送られた使者の説得に応じ、多額の金を受け取って帰順していました。漢はそこに西海郡を設置しています。ところが、後6年になって、また別の西羌の有力者たちは西海郡の郡都を攻撃し、太守の程永は逃亡する、といったことが起こります。王莽は程永を処刑し、護羌校尉の竇況を派遣して西羌を攻撃させたのです。

 翌7年、董況は西羌を破り、西海郡を回復します。

 王莽は西海郡へ出兵するのと並行して、貨幣改革も主導しました。それまで5銖銭だけだったのに対し、高額取引のための花柄を追加したのです。


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2020年01月15日

新 貨幣改革の失敗 高額取引用の貨幣が作られたが、名目価値と実質価値の乖離が大きすぎ、贋金作りが横行する 翟義の反乱

 新たに追加されたのは、12銖で5銖銭50と等価値の大銭、5銖銭500と等価値の契刀、5銖銭5000と等価値の錯刀です。いずれも、名目価値が実質価値を遥かに上回るのが特徴です。歴史上、このような状況では必ず盗鋳が起こります。現代の貨幣は、偽札が作られないように透かしを入れたり特殊なインクを使ったりすることで偽札を防止していますが、それでも完璧に贋金が作られることを防止できていません。まして、古代の単純な作りの硬貨の場合、硬貨そのものから型取りした贋金を簡単に作ることができるわけですから、盗鋳が盛んに行われました。

 同時に、列侯以下が許可なく黄金を持つことを禁じ、政府に提出させることを命じましたが、画餅に終わりました。

 貨幣改革により、かえって経済はダメージを被ってしまったのですね。この失敗により、また貨幣改革が必要になりますので、その模様をもう少し先で眺めることになるでしょう。

 貨幣改革の失敗だけでも十分な内憂でしたが、更に軍事的な問題も発生します。即ち、国内における反乱です。

 東郡太守の翟義が劉氏の一族に連なる劉信を立てて反乱を起こします。劉信は東平王劉雲の子でしたが、父の劉雲が誅殺されたため、王位を継げなかったことから不満を抱いていたのです。

 翟義は各地へ「平帝を毒殺して天子の位を摂って漢王室を滅ぼさんとする王莽に天誅を下す」と檄を飛ばしました。応じる者も少なからず現れ、反乱の規模は10万以上を数えたとされます。

 大反乱の発生に、王莽は恐れて天子代行をやめて大権を劉嬰へ返還するとまで言い出す始末です。一方で、王邑や孫建ら8人の将軍を派遣して翟義を討たせようとします。

 ところが、都が空になったと見た槐里県(三輔、すなわち長安近くの県です)の趙明、霍鴻らが反乱に呼応して兵を挙げます。こちらも10万人にも及ぶ規模となりました。

 王莽は王級らに趙明らを攻撃させるのと同時に、長安城内の警戒も最大限に高めました。首都近郊の反乱があったのですから、城内からの呼応を恐れたのでしょう。


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