2020年01月06日

ミイラ 参考文献 もっと知りたくなった方のためのブックガイド

 今回、ミイラについて調べるのに用いた参考文献についてご紹介致します。


 各地のミイラについて、ざっと知りたいという方に向いているのが、『教養としてのミイラ図鑑』です。各地の様々なミイラを美しい写真と共に紹介してくれておりますので、ミイラ展に行く前に目を通したい!という方にはまずこちらがお勧めです。

 『「知」のビジュアル百科 ミイラ事典』はエジプト中心ではありますが、他の地域のミイラについても触れられています。

 恐らく最も有名であろうエジプトのミイラについては、ミイラ化のみならず死に対する古代エジプト人の思想から埋葬まで広く扱っている『死の考古学』、死から埋葬までの流れや儀式を扱っている『古代エジプトの埋葬習慣』が参考になりました。特にファラオについての埋葬は『ファラオの生活文化図鑑』が参考になりました。

 寒冷地のミイラに関しては、アルプスでミイラとなって発見された5000年前に矢傷を負って亡くなった男性についての記録、『5000年前の男』が参考になりました。この本は、他にも古代人がどのような生活を送っていたかを教えてくれることが多いので、考古学に興味のある方には強くお勧めできます。

 南アメリカのミイラについては、『インカに眠る氷の少女』が特筆すべき本です。まだ幼い子どもたちが生贄にされたことを考えると重い気持ちにはなりますが、インカ帝国の生活や文化を伝えてくれている良書です。

 泥炭地におけるミイラについては、前述の『教養としてのミイラ図鑑』が詳しいのですが、どのような人々がミイラ文化を担っていたかについては『原始ゲルマン民族の謎―「最初のドイツ人」の生と闘い』が勉強になりました。

 日本のミイラについてはこのブログで紹介したことは『日本・中国ミイラ信仰の研究』にその多くを負っております。日本のミイラについては即身成仏と紛い物の人魚や鬼のミイラくらいしか知らなかった私に、それだけではない多様なものがあったと教えてくれました。出会えたことに感謝しています。

 他にもいろいろな本があるようですので、興味をお持ちになった方はぜひ読んでみてください。もしこのブログが、皆様の知的好奇心を少しでも刺激できたのなら、とても嬉しく思います。


教養としてのミイラ図鑑: 世界一奇妙な「永遠の命」
教養としてのミイラ図鑑: 世界一奇妙な「永遠の命」

ミイラ事典 (「知」のビジュアル百科)
ミイラ事典 (「知」のビジュアル百科)

死の考古学―古代エジプトの神と墓
死の考古学―古代エジプトの神と墓

(031)古代エジプトの埋葬習慣 (ポプラ新書)
(031)古代エジプトの埋葬習慣 (ポプラ新書)

ファラオの生活文化図鑑
ファラオの生活文化図鑑

5000年前の男―解明された凍結ミイラの謎
5000年前の男―解明された凍結ミイラの謎

インカに眠る氷の少女
インカに眠る氷の少女

原始ゲルマン民族の謎―「最初のドイツ人」の生と闘い (アリアドネ古代史スペクタクル)
原始ゲルマン民族の謎―「最初のドイツ人」の生と闘い (アリアドネ古代史スペクタクル)

日本・中国ミイラ信仰の研究
日本・中国ミイラ信仰の研究


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2020年01月07日

新 出世の端緒 病に倒れた王一族の頭領である伯父・王鳳を懸命に看病したことから出世の道を開いた王莽

 新について書き始めるに当たり、さらっとながしてしまった前漢末期における王莽の行動を見ておきましょう。どうしても重複が生じてしまいますが、どうかご容赦ください。

 王莽は王鳳の早世した弟、王曼の遺児です。兄がいたのですが、早くに亡くなったため、王莽が家督を継いでいました。先に記した通り、王鳳の兄弟で存命中の者は皆列侯に封じられたのですが、王曼は死去していたため封じられませんでしたね。そのため、一族の者が奢侈に耽る中、王莽は慎ましやかな生活を送るしかありませんでした。若くして沛の陳参の下で儒学を学び、家では寡婦となっていた母や兄嫁に仕え、兄の遺児を養い、と品行方正で知られていました。

 前22年、当時の王一族のリーダーだった王鳳が亡くなります。この時、病床の王鳳の面倒を見たのは王莽でした。

 王莽は数ヶ月に渡って叔父王鳳を看病します。その熱心さは尋常なものではなく、薬は自分が舐めて試し、身なりも気にせず帯を解くことすらなかった、と言われるほどでした。

 看病の甲斐なく、王鳳はそのまま亡くなります。

 彼は死ぬ前に、元后と成帝に王莽のことを頼みこんでいました。そのため、王鳳の死後に王莽は黄門郎に取り立てられました。これが王莽の出世の緒になりました。

 王鳳の後を継いで大司馬となっていた王音が亡くなり、王鳳の弟の王商が大司馬に就いた前16年、王莽は騎都尉、光禄大夫、侍中に昇進し、加えて新都侯に封じられます。新都侯の封邑は南陽郡の新野にありました。三国志ファンの方には馴染みの深い地名ですね。そう、後の新野の戦いの舞台です。

 彼が樹立した王朝名の新は、この新都にちなみます。

 王莽の野心はこの頃には既に膨らんでいたようで、彼は早速行動を開始します。

 まず標的とされたのは、衛尉の淳于長です。

 淳于長は、成帝が並々ならぬ寵愛を注いだ趙飛燕を皇后に冊立した功績(?)で衛尉となっていました。王莽は元后に、衛尉の淳于長は王根に代わって大司馬になろうとしていると讒言して下獄させたのです。淳于長は獄中で自殺しました。


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2020年01月08日

新 失脚と復活 成帝が亡くなり哀帝が即位すると王一族は権力から逐われる ほどなくして哀帝が死に、王皇后は璽を奪って王莽を大司馬に復活させる

 前8年、王莽の叔父の王根が病を理由に大司馬を退きます。しかし、実際には病だけが理由ではなく、この疑獄事件の影響もありました。彼は後任に王莽を推し、退任したのでした。

 ようやく転がり込んできた権力でしたが、王莽の大司馬時代はすぐに終わってしまいます。翌前7年、成帝が亡くなり、哀帝が即位すると王氏が逐われたのでしたね。この際に王莽も新野に戻ることになったのです。

 下野している間、次男の王獲が奴婢を殺すという事件が起こります。王莽は王獲を自殺させ、謹厳さを示しました。

 こうしたことから王莽は民衆から慕われ、冤罪を訴える上書は100を超えたと伝えられます。復権がなったのは前2年のことでした。この年に日食が起こると、「王莽が冤罪で下野していることが原因」と主張する者があり、王莽は中央に復帰したのです。

 復帰した王莽の課題となったのは、旱魃と蝗害によって被害を受けた民の救済です。王莽は資産2万銭、資産10万銭以下の者への救済策として、租税を免除したり死者が出た家には葬祭費の支給したり、貧民を移住させて土地を与えるなどの恤民政策を取りました。

 民衆が王莽復帰を喜んだのは当然だったことでしょう。

 前1年には哀帝が皇帝の印綬を愛する董賢に託して世を去ります。王太后は印綬を奪って王莽を大司馬に任命しました。これで朝廷は王莽、後宮は王太后と、王氏に権力が戻ったのでした。董賢は自殺しました。

 皇帝に立てられたのは中山王劉衎です。これが平帝でしたね。

 皇帝とはいえ、平帝は9歳の男の子に過ぎません。家族が恋しいこともあるでしょう。しかし、平帝の母方の一族は長安に入ることが許されませんでした。

 なにせ、衛氏は皇帝に最も近い存在となり、当然、高位高官に任じられるでしょう。現在その地位にあるのは王一族ですから、どう転んでも王一族の失脚は間違いないのです。哀帝の時代、傅一族が取り立てられて王一族が排斥されたことがありましたね。


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2020年01月09日

新 安漢公王莽 新皇帝の外戚を排除した父を諌めた長男すら自殺させて王莽は権力を守る 益州南方の越裳氏が雉を献じたことから王莽は安漢公となる

 王莽は手に入れた権力を二度と手放す気などありませんでした。儒家が称揚して已まない周公旦は主君が幼少のうちは主君に代わって力を握りましたが、成人すると権力を奉還したからこそ素晴らしいと言われているのに、どういうわけか儒教原理主義的な王莽がそうした生き方に従わなかったところを見ると、王莽は単なる権力亡者にしか見えなくなるのが不思議です。

 と、つい嫌味を書いてしまいましたが、霍光一族の例を見ても明らかな通り、独裁国家では失脚は即ち死、それも一族の滅亡に繋がりかねませんから、まあ彼にも思うところはあったのかも知れません。

 王莽の長男の王宇は、衛一族を排除する父を諌めようと考えます。その王宇に、「讖緯説を採用する王莽には諫言よりもむしろ怪異を利用した方が効き目がある」と進言した者がいます。そこで、王宇は妻の兄の呂寛に夜の間に王莽の門に血を塗らせました。

 この経緯を王莽が知ってしまいます。王莽は王宇とその妻を自殺させ、呂氏と衛氏は滅ぼされてしまいました。権力ためなら息子も殺すという冷酷さです。

 王莽は既に簒奪を考えていたのではないでしょうか。その究極の目的を達するためなら、息子をも切り捨てる覚悟だったように、私には思われます。

 同じく前1年、益州南方の越裳(えつしょう)氏が白雉1羽と黒雉2羽を献上します。これは周公旦が摂政の際に、その徳を慕って越裳氏が献上した故事を踏まえてのことです。王莽が裏で手を引いていたのですね。群臣たちは「王莽は周公旦と同じように漢を安んじたから献上があった」と言って、安漢公という称号を王莽に贈るように上奏します。 平帝に拒否ができるはずもなく、王莽は新たな称号を手にしました。

 漢を内側から食い尽くそうという王莽に、「漢を安んずる」という称号は悪い冗談としか思えませんね。


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2020年01月10日

新 祭祀改革 王莽は劉一族で儒学者として知られる劉歆らを登用し、祭祀の改革を図る 新は短命に終わるが、王莽の定めた祭祀は時代を超えて残る

 また、古い制度にあった太師、太保、太博、少博を設置して、王莽がこれを統括することになります。大司馬という政府の最高権力を握ると同時に、皇帝へつながる情報ルートも押さえたのです。王莽が権力につながるあらゆる地位を占めたわけですね。

 幼帝を擁して他の有力者を排除した王莽は、儒学者として知られる劉歆らを登用し、改革に着手しました。

 例えば、古礼に天子の廟は7つと書かれているため、漢の廟も7つにしようと7の議論がありました。7廟制は成帝の代から議論が重ねられてきたのですが、なにせ、どの皇帝を祀り、どの皇帝を祀りから除くのかは大変な問題ですから、揉めに揉め、いつまでも結論が出ていませんでした。最終的にどうするかを定めたのは王莽で、高祖劉邦、文帝、宣帝、武帝、元帝、成帝、哀帝の7人の皇帝が祀られました。

 これはまだ古礼に則っているから、誰を選ぶかさえ決めてしまえば良いのですが、難しいのは上帝と后土を祀る郊祀制でした。なにせ、これは武帝が定めたもので、儒教には合致しないのです。

 成帝の時代には儒家官僚が多数を占めていたこともあり、改革に関する建議は多数決で可決され、祭壇は長安の北と南に移されました。南北の郊外で祀ることから南北郊祀と呼ばれます。

 しかし、南北郊祀は大風で大木が倒されたことなどを凶兆とされて旧に復され、その後で成帝が急死すると戻しても効果がないということで再び南北郊祀が採用されましたが、哀帝が病弱だったためにまたもや元に戻す、と迷走します。5年、王莽の建議により南北合祀が行われ、以後は定着しました。?以後、南北郊祀は清朝まで続くことになります。

 天子の威光やら教化やらを発する明堂を長安に建設するということも王莽が端緒です。後漢の光武帝は洛陽に明堂を建設しています。皮肉なことに、王莽が定めたものが王莽を敵視した後漢王朝においても受け継がれ、継承され続けたのです。

 祭祀に関する改革を見る限り、王莽の改革はそれなりに優れたものだった、と結論づけるべきでしょう。


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