2019年12月01日

前漢武帝後 簒奪1 王莽は衛一族を都にすら入れないことを諌めた息子すら殺し、平帝の皇后に自分の娘を送り込んで権力を盤石なものとする

 王宇は衛一族を長安に入れるよう、父の王莽に働きかけます。ところが、王宇の行動は王莽の激しい怒りを買い、王莽は王宇やその義兄の呂寛を殺し、平帝の叔父の衛宝、衛玄をはじめ、衛姫以外の衛氏一族を皆殺しにしてしまいました。

 平帝が即位した前1年、益州南方の越裳(えつしょう)氏が白雉1羽と黒雉2羽を献上します。これは周公旦が摂政の際に、その徳を慕って越裳氏が献上した故事を踏まえてのことです。これは王莽が裏で手を引いていたのでしょう。群臣たちは「王莽は周公旦と同じように漢を安んじたから献上があった」と言って、安漢公という称号を王莽に贈るように上奏します。 平帝に拒否ができるはずもなく、王莽は新たな称号を手にしました。

 このとき、古い制度にあった太師、太保、太博、少博を設置して、王莽がこれを統括することになります。王莽が権力につながるあらゆる地位を占めたわけですね。

 翌紀元1年には早くも改元して元始となります。元始と西暦は同じ年になるわけですが、その珍しく覚えやすい元号は、わずかな期間で終わることになります。

 紀元または元始4年、王莽は霍光の例に倣って自分の娘を平帝の皇后に押し込みます。

 彼は本心を隠し、まずは殷や周、周公旦、孔丘の子孫か列侯の娘から皇后を選ぶように主張します。もちろん、その中には自分の娘も入れていて、他人に推薦させようとしたのです。権力を掌握する王氏の娘が推薦されないわけがありませんからね。

 しかし、いざ蓋を開けてみると、王一族から多くの女性が候補者になっていました。これでは王莽の娘が選ばれるかどうかは運任せです。

 王莽は謙譲を装って、「私は徳がなく、娘も優れてはおりませんので、他の子女と一緒に選ばれるほどではありません」と言って辞退しようとします。王太后はこの言葉を嘉して、王一族からは皇后を選ばないよう命じました。

 ところが、王莽の娘を皇后にすることを求める上書が殺到します。大臣や官僚のように王莽の恨みを買わないように願うものばかりではなく、庶民からも訴えが出されたとされます。私は王莽の差し金だったと思っておりますが、本当はどうだったのでしょうね。


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2019年12月02日

前漢武帝後 簒奪2 幼児の劉嬰から玉璽を奪い、自ら皇帝となる 新たな帝国の国号は、王莽が封じられた「新都」から、「新」と名付けられた

 王太后は王莽の娘を皇后に冊立することを認めました。また、皇帝の義理の父となった王莽には宰衡の称号が与えられました。この聞き慣れない称号は、殷王を補佐した伊尹の阿衡と周王を補佐した周公旦の太宰から採ったものです。自分の野心を優先させる王莽がこの両名を慕っていたと言われても、何の冗談かと思ってしまいます。

 この結婚は、王莽の娘にとって不幸でしかないものになっていきます。その悲しい未来はもう少し後に見ることになるでしょう。

 結婚翌年の紀元5年、王莽の娘が初潮を迎えます。初潮を「子孫の端」と言っていたそうで、王莽はこれを祝って杜陵から漢中まで、子午道と呼ばれる道を作りました。子午道は関中と漢中を結ぶ主要な道路として、この後も長く使われることになります。

 その年の12月、臘祭(年末に行う祭祀)の日に平帝は急死します。

 漢書平帝紀は死について「冬12月、帝は未央宮で崩じた」と簡潔に記すのみです。しかし、注には平帝が以前、母の衛一族が王莽に滅ぼされたことに恨みごと述べたことを知った王莽が、臘日に献上する酒に毒を混ぜ、毒殺したとしています。真偽は分かりませんが、14歳の皇帝が急死するのは不自然なので、毒殺説が正しいように思います。

 王莽がその後継者に選んだのは、宣帝の玄孫でまだ2歳の劉嬰です。劉嬰に政務など不可能ですから、王莽は劉嬰を皇帝とはせず、皇太子としました。

 最早、通を行く人にすら、王莽の野心は明らかですね。その王莽の露骨な狙いに、阿諛追従の輩が追従します。

 秦の項で、隕石に「秦を亡ぼす者は胡なり」と書いてあったという類の予言がありましたね。こうした予言を讖緯と呼びます。この頃には、讖緯の権威はますます重みを増していました。

 追従者は讖緯を巧みに用います。或いは、それも王莽の差し金だったのかも知れません。王莽はまず讖緯に従って仮皇帝を称し、更に讖緯に従って劉嬰から帝位を奪います。劉嬰は公的には帝位につかなかったため、諡号も存在しません。そのため、劉嬰は諡号の代わりに孺子嬰と呼ばれることもあります。

 王莽のやり口は全く好きになれないのですが、これが同時代の記録が残る最初の平和的な王朝交代劇です。誰の血も流れなかった革命であることを思えば、画期的な出来事でした。

 こうして漢は約200年の歴史に幕を下ろしたのでした。王莽は新しく建てた帝国の国号を彼が最初に封じられた「新都」から、新と名づけました。

 では、次回からは新について記していくことにします。


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2019年12月03日

ミイラ ミイラの語源 日本語のミイラはポルトガル語のMirraから 更にその語源は没薬(Myrrh)または瀝青(Mummiya)に行き着く

 上野の科学博物館において現在ミイラ展が開催されています。折よく前漢の項が終了したことを受け、一時的にいつもの連載を中断し、ミイラについて記すことと致します。お付き合いいただけると幸いです。

 ミイラという言葉は、没薬(Myrrh)またはアラビア語のMummiyaを起源とします。前者の説を採るならミイラの防腐処理に没薬が使われていたこと、後者なら7世紀にエジプトを支配したアラブ人がミイラのあの色を瀝青に起因するものと考え、アラビア語で瀝青を意味するMummiyaと呼んだことが起源です。

 英語ではMummyが相当する言葉で、ミイラとは似ていませんね。それも道理で、日本語のミイラはポルトガル語のMirraから作られた言葉です。なんとなく、瀝青Mummiya説はMummyに、没薬Myrrh説はMirraに近いようで、どちらが正しいか悩みますね。

 いずれにしても、ミイラの語源はエジプトの乾燥させた遺体を指していました。

 生物が環境の変化に耐えたり病原体との戦いに勝利するために選んだのは、性分化と死でした。これらは年を億の単位で数えなければならない遥か昔に起こったものですから、人類はその誕生時から、死と付き合うしかありませんでした。

 死者は、親しい人間が永遠に去ってしまったことを惜しまれると同時に、死への根源的な恐怖や、死者が生者に悪影響を及ぼすのではないかと恐れられる存在でもありました。だからこそ、人類は黎明期から使者を葬ってきたわけです。

 死者が持つと考えられた霊的な力を抑制したり利用したりするため、死者は縛って埋められたり、あるいは敵を防ぐ役割を期待されることもありました。

 死者に対するこうした思いは古今東西で千差万別で、死後の世界についての考えと密接に結びついています。人々は、彼らが想定する死後の世界を豊かにしようとして、それに相応しい埋葬方法を考えてきました。

 もう1つ、埋葬方法に影響を与えたのは、気候です。


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2019年12月04日

ミイラ 遺体をミイラにする50の方法 現在では皮膚の残った遺体はミイラと呼ばれる ミイラ化には様々な方法があり、保存食の技法はそのままミイラ化の技法でもある

 日本のように多湿な地域で暮らす場合、遺体はほどなくして腐敗を始めます。現代では遺体が放置され、腐敗して朽ちていく姿を見ることは(検屍官などの一部の方を除いて)そうそうないでしょうが、少し年代を遡れば遺体が朽ちていくのは当然のことで、その移り変わりは例えば九相図のような形で残されてきました。

 腐敗した遺体は悪臭を放つだけではなく、腐敗菌によって周囲の者に健康被害を与えることもあったでしょう。

 一方で、乾燥した地域の場合、遺体は放置しておけば水分が奪われ、乾燥してミイラになります。

 では、ミイラとは何でしょうか。『教養としてのミイラ図鑑: 世界一奇妙な「永遠の命」』の引く、『新法医学』にはこう定義されているそうです。

死体の乾燥が腐敗による分解速度より早く、かつ高度に進むと、死体の乾物ができあがる。これがミイラであり、体水分が60%以下になると細菌類の繁殖が阻止され、さらに50%以下になれば完全に止まる


 乾燥によって腐敗菌が水分を利用できなくなり、腐敗が止まったものが、エジプトのミイラに代表されるものですね。広く知られている通り、エジプトでは死後の生活に備えて遺体が腐らないよう、防腐処理を施していました。

 しかし、遺体が腐敗しないまま保たれるのは、暑く乾燥した地域とは限られませんし、必ずしも人手が加わっているとも限りません。そこで、現在では、皮膚の残ったままの死体は人間であれ人間以外であれミイラと呼んでいます。

 やや不謹慎かも知れませんが、保存食はまさに腐敗菌を繁殖させないための手段を追求したものですから、保存食に用いられる様々なテクニック、例えば塩漬け、燻製、乾燥、砂糖漬け、酢漬け、オイル漬けなどはそのままミイラ製作に適用することが可能なのです。


教養としてのミイラ図鑑: 世界一奇妙な「永遠の命」
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2019年12月05日

ミイラ 遺体をミイラにする50の方法2 塩漬け、燻製、死蝋化など、様々な方法でミイラは生じる

 例えば、イランの岩塩坑から発見されたミイラは塩漬けになることでミイラ化したものです。この場合、塩が強力な吸湿剤として働くため、遺体から急速に水分が失われるのですね。仮に水分が残っていたとしても、塩分濃度が一定以上高まれば、細菌が生化学反応に利用できなくなりますから、遺体は腐敗せずに保たれるようになります。

 あるいは、パプワニューギニアのアンガ族は死者の脂肪を抜き取ってから煙で燻して乾燥させ(燻製に他なりません)てミイラにしています。ミイラは崖に安置され、外敵から村を守ってくれると信じられていたそうです。

 ということは、湿度の高い地域であっても、一定の条件を満たせばミイラを作ることが可能です。例えば日本にもミイラはあります。広く知られているのは、即身成仏ですね。

 日本のミイラについては後述することとし、ここでは条件さえ整えれば湿度の高い地域でもミイラを作ることは可能ということだけ押さえておきましょう。

 皮膚が残り続けるものをミイラと呼称するのであれば、乾燥させた以外の形態のミイラも存在します。多湿の地域で死体が腐ってしまうのは、腐敗菌の働きによるものです。ということは、多湿であっても腐敗菌が活動できないような環境であれば、ミイラが生まれます。

 例えば水中で腐る前に死蝋化(腐敗を免れている間に脂肪が変性して蝋状になる現象)してしまえば、その死体はミイラとして残ることになります。死蝋化はミイラとはまた異なるとされることもありますが、皮膚が残り続けるものをミイラと定義するのであれば、こちらもミイラに該当します。

 例えばヨーロッパでは、泥炭地でいくつものミイラが発見されています。『教養としてのミイラ図鑑: 世界一奇妙な「永遠の命」』によれば、「@強酸性の水A低温B酸素の欠乏」という特殊な条件が揃った場合に生まれます。腐敗菌は増殖に酸素を必要とするので、このような環境下だと腐敗しないのです。

 泥炭地のミイラはエジプトの人工処理されたミイラとは異なり皮膚や内臓がそのまま残っているため、生前どのようなものを食べていたかを知ることができます。

教養としてのミイラ図鑑: 世界一奇妙な「永遠の命」
教養としてのミイラ図鑑: 世界一奇妙な「永遠の命」


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