2019年11月01日

前漢武帝後 霍光独裁1 娘を皇帝と結婚させた上官桀は徐々に増長し、霍光との仲が険悪化する 死んだはずの皇太子劉拠の偽物事件

 皇后の父となった上官安は車騎将軍となり、更に翌年には列侯となりました。

 外戚となった上官安は増長します。霍光は実質は漢の最強の権力者であっても常にへりくだっていましたが、上官安は皇帝を婿と呼び、父の側室の女性と関係に及ぶなど、眉を顰めるしかない行動を取るようになっていきます。

 そうした中で、上官安は自分の出世を助けることになった丁外人に官位を与えるよう、霍光に願い出ます。しかし、霍光はこれを拒否しました。

 娘の後宮入り反対や丁外人の官位拒否は、上官桀・上官安親子と霍光の関係を悪化させます。

 上官桀たちは霍光追い落としを考えるようになっていきます。

 不和の種が芽を出しつつある前82年、未央宮に、黄色い牛車が止まりました。車から降りた男は、巫蠱の乱で死んだはずの劉拠を名乗ります。劉拠をよく知っていた、丞相の田千秋や御史大夫の桑弘羊ですら何も言えないほど、その男は劉拠に見えました。

 なにせ、この男が皇帝にでもなろうものなら、迂闊なことを言った者の命は危ういでしょうからね。

 そこへ京兆尹の儁不疑がやってきます。そして、「衛太子はかつて先帝に罪を得た身である。仮に皇太子だとしても、罪人には違いない」と言うと、男を逮捕し、投獄しました。

 調査の結果、男は成方遂なる偽物で、劉拠に似ていることから名乗り出たことが判明します。この詐欺未遂は高くつき、この男は処刑されました。昭帝と霍光はこの儁不疑の決断を讃えたそうです。

 これと比べると、2月革命でロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世と共に銃殺された皇女アナスタシアの偽物事件の顛末はかわいいものですね。偽物は天寿を全うしていますから(アナスタシアの遺骨が発見されており、彼女が17歳で殺害されたことは間違い有りません)。

 前81年、霍光は全国の賢良、文学を60人余り招集し、経済政策を議論させます。

 省庁主催のなんちゃら会議が単に議論させるだけのものではないのと同じように、当時の会議も目的は会議をすることではありません。いえ、あるべき姿について会議で決定することでも有りません。主催者が望む答えを出させ、「専門家がこう言うから」という言い訳を作ること或いは反対派を排除することこそが目的です。


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2019年11月02日

前漢武帝後 霍光独裁2 外朝のトップ、桑弘羊追い落としを狙って霍光は塩鉄会議を主催する

 省庁主催のなんちゃら審議会が単に議論させるだけのものではないのと同じように、当時の会議も目的は会議をすることではありません。いえ、あるべき姿について会議で決定することでも有りません。主催者が望む答えを出させ、「専門家がこう言うから」という言い訳を作ること或いは反対派を排除することこそが目的です。

 今回霍光が標的としたのは、塩や鉄、酒の専売廃止です。これらは匈奴遠征により苦しくなった漢の財政を立て直すため、桑弘羊らの提言によって導入されたものでしたね。

 値段が下がったときに買い入れ、高くなったら放出するという物価均衡策である平準法、値段が下がったものを買い入れ不足しているところに運ぶことで物資不足を解消する均輸法廃止が議論されました。

 平準法や均輸法の立案者であり、外朝の実質的なトップである桑弘羊は当然猛反対します。

 反対論の趣旨を、『秦漢帝国 (講談社学術文庫)』はこう記します。

(略)文学(賢良も同じ)の主張は、政治の根本は人民生活を安定させ、これを仁義道徳に導くことであり、そのためには、末業である商工業を抑さえて、本業である農業に就かせることが必要であるから、現在政府が実施している塩鉄・酒榷・均輸のように、政府みずから民と利を争って、民を末業に赴かせる政策は廃止すべきであるとする。これに対して大夫桑弘羊の主張は、現在政府のなすべきことは、外敵の侵寇を防ぐことであり、そのためには辺境の防備を厳しくし、かつその防備のための財政的措置として、武帝以来の塩鉄・酒榷・均輸を存続して、府庫を充実することであるとする。
 前者は国家を民生安定の機関と考え、後者は外敵からの保護機関と考える。前者は理念的な政策を主張し、後者は現実的な政策を主張する。前者は儒家的思考形式を示し、後者は法家的思考形式を示す。


 古の聖王を称揚する儒家は、復古主義で現実離れした理想論を主張するばかりでした。それなのに、霍光の意向を受けた儒者たちは桑弘羊を相手に一歩も引かず攻撃を加えます。


秦漢帝国 (講談社学術文庫)
秦漢帝国 (講談社学術文庫)


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2019年11月03日

前漢武帝後 霍光独裁3 塩鉄会議で桑弘羊に敗北した霍光、大司農へ自分の信頼する楊敞を送り込み、外朝を骨抜きにしようと図る

 上掲書は霍光の更に後ろに、均輸法や平準法で損をする側となった地方豪族との連携によって外朝を攻撃しようとした、と指摘しています。

 塩鉄会議と呼ばれるこの会議は結局、酒の専売のみが解除され、均輸法と平準法、塩鉄の専売については儒者たちの意見は採用されず、現状維持が決められました。

 総合的に見れば、儒者を使って桑弘羊に代表される外朝を攻撃しようとした霍光の意図は挫かれた、というところです。

 なお、この塩鉄会議の模様については宣帝時代に成立した『塩鉄論』にまとめられています。『塩鉄論』は対話形式で書かれたものですが、議事録というわけでは無いようです。

 敗北した霍光は、財政を管轄する大司農へ自分の信頼する楊敞を押し込みます。それまで大司農は空位でした。ということは、その上位職者である御史大夫の桑弘羊が大司農の業務を行っていた、ということです。大司農を霍光の息のかかった者に奪われたことは、外朝としては困ったことだったわけです。

 隠然たる勢力争いがいつ火を吹いてどちらかの陣営を焼き尽くさんとするその直前に、かの蘇武が帰国します。

 蘇武は匈奴に使いした際、副官が当時匈奴内で進められつつあった単于暗殺計画に参加したものの計画は失敗したため、自殺を図ってそのまま匈奴に抑留されたのでした。

 匈奴側は蘇武は死んだと言い続けていたのですが、漢の使者が匈奴を相手に、蘇武が生きていることは分かっていると言い、その解放を求めたのです。使者は、狩りで捕らえたガンの足に蘇武の手紙が括り付けられていたため、蘇武の生存を知ったと主張しました。

 このことから、手紙のことを雁書と言います。

 もちろん、この話そのものは嘘です。蘇武と共に囚われの身となっていた常恵という人物がいましたね。この常恵が、漢の使者に蘇武が生きており、バイカル湖のほとりで苦難の生活を送っていることを告げたのです。ガンを捕らえたら云々という話は、情報源を守るための方便だったのでしょう。


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2019年11月04日

前漢武帝後 霍光独裁4 上官桀は燕王劉旦からの霍光弾劾の上書をでっち上げるが、粗雑なもので皇帝に見抜かれ、信用を失う

 捏造されたものとはいえ、蘇武が生きている証拠なるものを突きつけられてしまえば、匈奴も認めざるを得ません。こうして蘇武は漢に戻ることになったのです。外交使節として国を出てから、19年もの歳月が流れていました。

 しかし、全てがめでたく終わるわけはありません。蘇武の母親は既に世を去り、妻は別の男に嫁いでいました。死んだとされていたのですから当然でしょう。この後に、蘇武にはまだ辛い未来が待っているのですが、それは後に触れることとして、今は帰国した蘇武は降伏した異民族を管掌する典属国に任命されたことを押さえて次に進みましょう。

 蘇武が帰国した直後、上官桀は遂に霍光排除に動きます。

 上官桀が頼ったのは、孫娘を皇后にするのに力を借りた蓋長公主、その同腹の弟である燕王劉旦、そして桑弘羊です。蓋長公主は愛人の丁外人の列侯や光禄大夫への就任を霍光が拒否したことから、霍光を憎むようになっていたのです。上官桀は燕王劉旦の上書なる弾劾文を捏造し、霍光の留守中に昭帝へ奏上してしまったのです。ところが、その中身は実におかしなものでした。

 弾劾はまず、霍光が羽林、郎官の兵の閲兵時に皇帝が出御すると称して準備をさせたこと、次いで蘇武はあれほど国に尽くしたのに典属国という高くない官に任じられただけなのに大将軍長吏の楊敞は功績もないのに大司農に任命されたこと、最後に勝手に大将軍府の校尉を増員したことを挙げて霍光を非難しました。

 しかし、ほんの数日前に行われた郎官、羽林兵の閲兵や、10日前の大将軍府の校尉増員を燕王が上書できるはずがありません。14歳の昭帝ですらその雑さを見抜き、むしろ霍光への信用が増し、上官桀らが皇帝の信用を失うことになったのです。

 翌前80年、上官桀らは、蓋長公主が開いた宴席にかこつけて霍光を殺し、昭帝を廃して燕王劉旦を帝位に就けるという計画を立てます。燕王劉旦は相が留めようとするのも聞かず、長安へ向かう準備を始めました。


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2019年11月05日

前漢武帝後 霍光独裁5 霍光を亡き者にせんとする上官桀らの計画は露見し、上官桀親子や桑弘羊らは誅殺され、外朝と内朝を手中に収めた霍光が全権を握る

 クーデター計画は、蓋長公主の召使いがその父に告げたことから発覚します。上官桀、上官安親子はそれぞれ丞相府の官吏に捕らえられて斬られ、桑弘羊と丁外人も誅殺され、蓋長公主は自殺します。反乱計画の場合の例に漏れず、上官桀や桑弘羊の一族は滅ぼされました。いえ、上官桀については、霍光の孫娘でもある上官皇后だけは生き残りました。彼女はまだ11歳に過ぎず、反乱にも関与していませんでしたから妥当な判断でしょう。

 長安での政変が失敗に終わったことは燕王劉旦のもとへももたらされます。更に、昭帝から謀反を非難する皇帝の勅書が届いたことで、劉旦は燕王の印綬の紐で自らの首を絞めて自殺しました。夫人たちも彼に続き、燕王劉旦は滅びました。

 劉拠が死んだ際に彼と親しかった人々が滅ぼされたのと同様に、上官桀らの親しい人々も多く処刑されました。その中には蘇武の息子の蘇元もまた含まれていました。この時、蘇武はまだ存命でしたので、後継ぎが問題となります。結局、蘇武が匈奴抑留時に得た子が後継者となりました。

 さて、外朝の事実上のトップの桑弘羊、内朝で唯一霍光と権威を争うことができた上官桀が同時に滅んだため、権力にはかなりの空白が生じることになりました。

 なにせ、外朝の名目上の頂点である丞相はかの田千秋です。かつて霍光が田千秋に「私が天下の望みに背くことのないよう、導いて欲しい」と言った際、「あなたの思うままになされば、天下は幸せになるでしょう」と応えて霍光と争わない姿勢を示しています。そもそも彼は何ら功績を持たない人物ですから、政府内でも特に力があるわけでも無かったのです。それが、上官桀、上官安を捕らえたのが丞相府の役人であったことから明らかなように、今回の争いでは明確に霍光の側に付いていたわけです。

 御史大夫の後釜には無能な人物を据え、財務を司る大司農には楊敞を留任させることで、外朝もまた霍光がコントロールできるようになります。



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