2019年10月01日

漢武帝 匈奴遠征再び1 前106年に烏維単于(ういぜんう)が死んで若く残忍な児単于が即位したことから、北辺は途端にきな臭くなる

 遠征は行われてもその対象は匈奴ではなかったので、北辺にはしばしの平和が訪れていたのですが、匈奴側の状況の変化は再び両勢力を戦いに向かわせることになります。

 前106年、匈奴の烏維単于(ういぜんう)が死去します。烏維単于の子の児単于が即位すると、漢は匈奴分裂を図り、単于と右賢王にそれぞれ使者を送ります。ところが、使者は2人共単于のもとへ連れて行かれ、漢の工作は露見してしまいました。当然、漢と匈奴の関係は悪化します。
漢の方から仕掛けているわけですから弁護のしようはありませんね。武帝は公孫敖に居延の北に受降城を築かせて匈奴に備えました。

 匈奴側では児単于が残忍で匈奴集団をうまくまとめることができていないでいました。匈奴の左大都尉は漢と結んで児単于を亡き者にせんと謀るようになりました。更に、同年冬に大雪で匈奴の多くの家畜が死んだことから、匈奴が弱体化したと考えた漢の方でも匈奴を攻撃する機会を伺うようになったのです。こうして、いつ戦いが起こっても不思議はない状況となったのです。

 前104年、またも元号が改められ、太初となります。これまでは秦と同じく10月で年が改まっていたのですが、正月を年の初めとします。暦法の改定はこれだけに留まらず、24節気のうち中気(正節以外の12で、有名なのは春分、夏至、秋分、冬至などでしょう)を定めています。これにより、従来は閏月を年末に挿入していたのですが、相当する月の翌月に置かれるようになりました。例えば、5月の翌月に挿入する場合には5月の次が閏5月、そして6月となります。

 また、五行思想から、漢は土徳の王朝とされました。それに合わせ、服は黄色が、数字は5が尊ばれるようになりました。このことから明らかなように、秦が水徳の王朝で云々というのは、漢が五行思想を取り入れたことから逆算されたことですね。

 中央省庁の名前も大きく変わり、大農が大司農になったり、宮城警備を担当する中尉が執金吾になったりと、三国志ファンに馴染みの深いものになっています。例えば、呂布の養父の丁原がこの執金吾です。董卓が呂布を籠絡したのは、呂布という武人を欲しかっただけではなく、宮城警備権限も握ろうとしていたわけです。


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2019年10月02日

漢武帝 弐師将軍李広利1 前104年、漢はフェルガナの千里を走り血の汗をかくという名馬を求めるが拒否され、フェルガナ遠征を企図する

 同じく前104年、外交上の問題がもちあがります。

 漢では匈奴との戦いに必要な名馬を必要としていました。西域との貿易で多くのウマを得てはいたのですが、まだまだ質も量も足りていない状況でした。そんな中、大宛の弐師(じし)城ではで1日に千里も走り、血の汗をかくという汗血馬を飼っている、との情報が漢にもたらされます。

 「これは今日アラブ種として知られる、実はイラン高原を原産地とする肺活量の大にして、競走馬に向く品種であったらしい」と『中国史』宮崎市定は記します。真偽は分かりませんが、さぞ従来のウマと比べて俊足だったのでしょう。

 武帝は早速多額の金を持たせた使者を大宛に送ったのですが、大宛では国の宝である良馬の引き渡しを拒否しました。漢の使者は腹を立て、大宛の人々を罵ると、持参した宝物を打ち壊して帰途につきました。大宛の人々は「漢が我らを侮辱した」と怒り、使者を殺して金を奪ってしまったのです。

 これで黙っているような武帝ではありません。また、朝廷では「大宛の兵は弱兵揃いですから、兵を3000も送って強弩で攻撃すればたちどころに滅ぼすことができるでしょう」などと勇ましい強硬論が台頭しました。

 過去に趙破奴がわずか700騎で楼蘭を攻めてその王を捕らえた事例があったことから、武帝はこの意見を採用します。そして、李広利なる者を将軍に任命して大宛を攻撃させることにしました。

 李広利は衛青と同じように、その妹が武帝の寵愛を得たことで武帝の目に止まった人物です。寵姫の一族を列侯にしてやりたい、という気持ちが先行しての人事でした。

 武帝は李広利を弐師将軍に任命し、騎兵6000と犯罪者からなる数万を率いさせ、大宛に出撃させました。

 ところが、思わぬできごとから遠征は苦しいものとなります。

 中国でイナゴが大発生し、それが遥か西の敦煌にまで飛んできたのです。運悪く、李広利の軍は既にかなり進んでいました。進路での現地調達は困難を極め、大宛の町の郁成に辿り着いたときには、疲れて飢えた兵士数千しか残っていない、という惨状を呈しました。


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2019年10月03日

漢武帝 弐師将軍李広利2 砂漠を越えての遠征は失敗に終わり李広利は漢に逃げ帰るが、武帝は入国を許さず兵を与えて再遠征へ赴かせる

 李広利軍は郁成の軍に敗北を喫したため、彼らは弐師城へ向かうことは諦め、帰国することにします。何とか敦煌に戻るまで2年を要し、李広利と共に帰ってきたのは1割から2割ていどだったそうです。

 壊滅的な被害と言えるでしょう。

 李広利は一度軍を解散し、新たに軍を編成してから再遠征を行いたい、と武帝に上申しました。ところが、武帝は怒り、玉門関を封鎖して、「李広利の部下で命令に背いて帰国しようとする者は斬る」との布告を出します。2年間もの間、遠征に耐えた兵士たちに対して何たる扱いでしょうか。

 敗戦将軍に再び軍を率いさせると決めても、同じ過ちを繰り返すほど漢は芸がないわけではありません。今回は補給ルートを整備し、ウシ10万頭、ウマ3万頭余り、ロバ、ラバ、ラクダが万をもって数えるという輜重隊(兼食料)を編成しました。また、囚人を赦免して兵士とし、辺境の騎兵も動員したため、兵力は6万を越えました。その中には、最先端の兵器である強弩部隊も送り出しました。

 兵力だけではなく、作戦もしっかり練られます。

 弐師城は、その城内に井戸がなく、必要な水は近くの川から汲んできていました。漢軍は大規模な工事を行い、城下へ流れていた川の流れを変えられるようにしてしまいました。

 加えて、河西回廊の酒泉郡と張掖郡の北に居延郡と休屠(きゅうちょ)郡を置き、酒泉郡を守らせました。

 河西回廊とは、ゴビ砂漠と祁連山脈とに挟まれた帯状の地域で、その長さはおよそ1000キロにも及びます。『万里の長城 攻防三千年史 (講談社現代新書)』によれば、「祁連山脈の連峰から北へ流れる雪解けの水が砂漠へ向かう河となって随所にオアシスを形成している」とのことで、河西回廊が貿易ルートとして(また、軍事侵攻ルートとしても)重要だった理由が分かりますね。

 東部と西部とでは辿った歴史も文化も大きく異るとのことですが、少なくとも西部では仰韶文化が栄えていたことから、かつては農業が盛んだったようです。それが気候の変化に伴い、農耕から牧畜へ、生活様式が徐々に変化していきました。

万里の長城 攻防三千年史 (講談社現代新書)
万里の長城 攻防三千年史 (講談社現代新書)


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2019年10月04日

漢武帝 弐師将軍李広利3 漢軍に包囲された弐師城内では、和平派が王を殺して漢の条件を飲むことを決める

 これは同時に遠征軍のバックアップも兼ねていました。この西域4郡からの補給を受け、李広利は順調に軍を進めます。周辺の小国も、李広利の大軍を見て李広利に食料を提供しました。

 大宛軍は漢軍を迎え撃ちます。漢軍が弓隊を最大限に活用したため、大宛軍は敗北して弐師城に撤退しました。漢軍はここでいよいよ川を決壊させて流れを変えてしまい、弐師城内は渇きに苦しむことになりました。

 包囲は40日に及び、外城は破壊されて大宛の人々は中城へ逃げ込みます。大宛の貴族たちは、「漢が大宛を攻撃してきたのは王が良馬を隠し、漢の使者を殺したからである。王を殺してウマを差し出せば、漢は包囲を解くだろう。解かなければ、それから戦って死んでも遅くはあるまい」と話し合うと、王を殺して李広利と降伏交渉に入りました。

 「降伏を許してもらえるのなら、良馬を差し出すので好きなだけ取ってくれて良いし食料も供出する。しかし、もし降伏を受け入れてもらえないなら、良馬は全て殺し、他国からの援軍を待つので漢は挟撃されるだろう」、漢の望む条件を提示するのと同時しっかり脅しもいれています。

 漢の側にも長期戦に持ち込まれたくないという思惑がありました。補給線が長いため食料の補給が困難な中、大宛では漢人から井戸を掘る技術を得ていました。野戦で捕虜になったのか、過酷な遠征に辟易して亡命したのか、大宛に参加した漢人がいたのですね。長引けば、あるいは不利になるのは漢なのかもしれません。

 李広利はこの条件を飲み、最上のウマ数十、中級以下3000頭余りを得、大宛には大宛の親漢派の貴族昧蔡を王に据えて帰国しました。
勝利を得たというのに、玉門関を通って帰国したのは1万余りに過ぎませんでした。それだけ当時の遠征は過酷なものだったこともあるのでしょうが、史記は将校が貪欲で兵士を可愛がらなかったため、と記しています。

 李広利は列侯に封じられ、指揮官の上官桀が少府になるなど、遠征した将軍たちは出世を遂げました。

 なお、漢により大宛の王とされた昧蔡は、1年ほど後に大宛の貴族たちに殺され、前大宛王の兄弟を王位に付けました。


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2019年10月05日

漢武帝 長城防衛1 趙破奴による遠征が失敗に終わり、漢は長城を整備して防衛体制を固める

 前103年春、武帝は趙破奴に2万騎を率いさせて匈奴に侵入させます。

 先に記したとおり、即位したばかりの児単于は残虐だったため、左大都尉は漢と組んで単于暗殺を図っていましたし、前105年冬には寒波が襲って匈奴では多くの家畜が死んでいましたから、漢は匈奴に付け入る隙をみていたのです。

 匈奴の左大都尉は漢軍侵入の機をとらえて単于を暗殺しようとしますが、企ては露見し、左大都尉は処刑されました。趙破奴は匈奴と遭遇する前に引き返してしまうのですが、匈奴は漢軍を追うと、攻撃して漢軍を降伏させました。趙破奴も捕虜になっています。こうして遠征は大失敗に終わりました。

 翌年の前102年、今度は匈奴が最前線の受降城を攻撃しようとしますが、その途中で児単于は病死します。児単于の子はまだ若かったため、叔父の呴犁湖が単于となりました。

 漢は匈奴との国境沿いに物見櫓や城壁を築いて匈奴侵入に備えることになります。

 ここで漢代の長城防衛体制について触れておきましょう。

 過去にも少し触れたとおり、長大な国境線に軍隊を張り付けておくことは現実的ではありません。仮にそのような配置をしたとしても、弱い部分を食い破られてしまうのがオチです。これと全く同じことは、湾岸戦争においてイラクの敷いた防衛戦を多国籍軍が易易と突破したことに見ることができます。

 そこで、長城には一定間隔(エチナ川、疏勒川では1〜3キロ置きに設置されました)で燧と呼ばれる望楼が建てられ、匈奴の接近を監視していました。

 当時の書写材料は木簡でしたね。中央政府から辺境までの連絡も当然木簡で送られます。乾燥地帯だった居延の燧からは、腐らずに残った木簡が大量に発見されており、当時の兵士の生活といった細々としたことも分かるようになっています。

 複数の燧が集まって部となり、更に部が集まって候官が形成されました。例えば甲渠候官では10の部、84の燧を統括していました。この候官の更に上が都尉府で、その上は郡の太守府となります。
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