2019年09月27日

漢武帝 司馬遷 司馬談は封禅の儀に立ち会えなかった悔しさから没し、息子の司馬遷に太史公の地位と書きかけの私的歴史書を託す

 さて、司馬談はもともと重篤な病だったのか、封禅の儀に立ち会えなかった悔しさからか、間もなく世を去ります。彼は歴史書の編纂も手掛けていましたが、それは息子に託さざるを得ませんでした。その息子こそ、司馬遷です。

 司馬遷は幼い頃から字を教えられ、10歳では尚書を諳んじたそうです。司馬遷はまた、董仲舒に師事し『春秋公羊伝』を中心に儒学を習っています。恵まれた環境にあったのですね。

 更に、彼は20歳ごろから斉や魯を巡る大旅行に出ています。この際に舜が眠ると伝えられる九疑山や、屈原が身を投げた汨羅の縁などを訪ねています。この時の経験が、後に『史記』と呼ばれることになる書物を記す上でとても役に立つことになります。この後も司馬遷は何度か私用や公用で広く中国を巡っています。

 仕官すると、武帝の命で四川や雲南の異民族を宣撫し、帰朝しました。父司馬談の死に立ち会ったのはこの時のことです。そして、父の後を継いで太史令となりました。

 司馬遷が父から受け継いだのは、太史令という公的な立場だけではなく、私的に書き溜めた歴史の編纂もありました。史記は官吏として、あるいは武帝からの命令に従って行ったわけではないのですね。そのため、私家の書と言われます。言ってしまえば、私のこのブログみたいなものですね。

 とはいえ、史記を記すことができたのは、司馬談・司馬遷親子がその職務がら、王宮や官庁に収められた文書を多く利用できる立場にあったためです。実際、利用している文書は司馬遷が職務上触れることができる分野が多く見られると言われます。

 ここでは司馬遷が先行する文献を利用できる立場にあったこと、父の記していた私的な文書の作成も引き継いだことを押さえて先に進みましょう。

 前109年、南越に続いて今度は朝鮮への出兵が行われます。

 当時の朝鮮は、劉邦の幼馴染の盧綰が漢に背いた際に漢を離脱して朝鮮に入り、箕子朝鮮の最後の王を殺して王国を乗っ取った衛満の孫の衛右渠が支配していました。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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