2019年09月26日

漢武帝 封禅の儀2 天文官の司馬談ら、封禅の儀の内容を調べようとするが、はっきりしないまま武帝は封禅の儀へ向かう

 泰山で何を行えば良いのか、という正解の無い問題に取り組むことになったのは、天文官たちです。

 古代中国では、天がその意思を天体現象に表すと考えていたため、夜空の観察が体系的に行われていました。また、そのような成り立ちから、天を祀るためのことも管掌しました。現代的な感覚ですと、なぜ天文官が儀式のことを考えなければならないのか不思議な感覚ですが、当時では至極当然だったのです。更に、天文と関係の深い暦法も担当していましたし、どうしたことか歴史も見ていました。

 太常の属官として天文官を束ねるのが太史令で、この頃には司馬談という人物がその地位にありました。秦に仕えて蜀攻撃を行った司馬錯の子孫で、5代前は白起に仕え白起が自殺を命じられた際に連座しているという、代々秦に仕えていた家系です。

 しかし、司馬談は病のため、武帝が封禅の儀に同行できませんでした。武帝は儀式の詳細について儒家たちに訊ねましたが、各人の主張はてんでバラバラだったため、以後は儒家に対する信頼を失っています。結局、武帝は始皇帝同様に、何を行うのが正しいのかを知ること無く、泰山を登り、封の儀を行いました。

 お供を仰せつかったのは、かの霍去病の遺児、霍嬗(幼少時の字である霍子侯と呼ばれることも多くあります)ただ1人でした。霍去病は前117年に24歳で世を去っていますから、封禅の儀が執り行われた前110年において霍?は10歳前後だったことでしょう。武帝が霍去病をどれだけ寵愛していたかが分かりますね。

 そして翌日には、粛然山で禅の儀を行います。こうして封禅の儀は完了し、それを祝って元号を元封と変更しました。

 封禅の儀の直後、霍嬗は急死してしまいます。武帝はその死を嘆きましたが、霍嬗に子があるわけもなく、家は断絶して領国は没収されました。ただ、霍嬗には弟がいたようで、霍去病の孫に当たる霍山、霍雲らが史書に名を残します。その残念な歴史を、後に見ることになるでしょう。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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