2019年09月25日

漢武帝 封禅の儀1 宝鼎が発見され、黄帝のときと同じだとか周の遺徳を継ぐものだとの阿諛追従が行われたことから泰山の儀式が話題に登る

 平準法とは、均輸法の欠点を埋め、かつ民衆の負担を軽減するもので、その内容は『秦漢帝国 (講談社学術文庫)』によれば以下のものです。

均輸法の施行後、中央の各官庁はそれぞれ官吏を地方に派遣して必要物資を購入していたので、その競争によって物価が騰貴し、輸送費すらつぐなわぬという事態がおこった。そこで桑弘羊は各郡国に均輸官を増設し、それぞれの地方において、物価低落のばあいに買い付けを行って物価を引き上げる方策をとり、一方では、首都長安に平準官を設置して、地方で購入した物資をここに貯蔵し、物価が騰貴すると、これを販出して物価を引き下げることとした。


 この考え方は、理論化こそされていないものの需要供給曲線に基づいた物価の安定策そのものですね。

 均輸法と平準法とは、大商人が利益を得ていた利益を国家が得るようにした、という性格を持ちます。これで国庫は潤うようになりました。

 同じく前110年、武帝は泰山で封禅の儀を行おうとします。

 これに先立つ前122年、武帝は雍に行幸し、白麟を捕えました。済北王はこの吉兆があったからには封禅の儀を行うべきとし、泰山と付近の地域を献上しています。

 前116年には自らが地を祀るために建てさせた后土祠という祠の傍らから宝鼎が発見され、黄帝の時と同じと唱える者が現れます。どう考えても阿諛追従の輩が埋めたとしか思えないのですが、信心深い武帝はこれを信じます。周の鼎を継承するとの意見がでたことがきっかけとなり、封禅の議論が始まりました。

 しかし、封禅の儀を行うには大きな問題がありました。

 伝説を除けば、封禅の儀を執り行ったのは秦の始皇帝のみです。その始皇帝も、何をやるべきか分からずに独自の儀式を採用したわけですが、その詳細もまた伝わっていませんでした。いえ、それどころか、武帝の時代には始皇帝は封禅の儀を行おうとしたが、天候悪化のため泰山に登ることができなかった、と噂されていました。つまり、武帝には手本とすべきものが何もない状況だったのです。

秦漢帝国 (講談社学術文庫)
秦漢帝国 (講談社学術文庫)


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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