2019年09月24日

漢武帝 南越併呑3 南越は漢の送り込んだ小規模部隊は全滅させるが、続いて送られてきた大軍には抗し得ず、滅ぼされて漢の一地方となる

 この中途半端な兵力は、呂嘉個人にとっては脅威ですが、南越国としてはなんということもないものです。呂嘉が生き延びるには、南越の軍を手中に収めなければならなくなったわけです。

 呂嘉は、この場合に取るべき行動を躊躇うような人物ではありませんでした。将軍となっていた弟と共に兵をあげると、太后と南越王、更に漢の使者を討ち取ったのです。そして、南越王趙嬰斉の異母兄趙建徳を王位に就け、自分の傀儡としました。

 韓千秋らが南越に攻め込むと、南越では敢えて彼らと戦わずに南越深くまで侵入させ、深入りしたところを攻撃して全滅させました。韓千秋の大言壮語は身を滅ぼすことになったのです。

 武帝は韓千秋の遺児韓延年を取り立て、そして南越へは伏波将軍路博徳、楼船将軍楊僕らの率いる大規模な軍を送りました。

 ちなみに、この「伏波将軍」や「楼船将軍」は、政府の役職として存在するものではなく、役割や攻撃地点を冠したもので、雑号将軍(ざつごうしょうぐん)と呼ばれます。武官の最高位である大将軍を始めとするいくつかの○○将軍は常設されているものですが、雑号将軍は常設のものではありません。

 南越はこのような大軍に対抗するだけの力はありませんでした。趙建徳と呂嘉は城を固めますが、漢軍は鎧袖一触これを葬ってしまいます。趙建徳と呂嘉は海上に逃れますが、それも僅かな時間稼ぎにしかならず、両名とも捕らえられ、南越は呆気なく平定されました。趙佗が王となってから93年目のことでした。

 南越の故地には蒼梧や交阯など9郡が設置されました。後の三国時代、士燮が独立勢力を築き、ここから密かに南蛮と連絡を取るようになっていきます。

 前110年、平準法が制定されます。均輸法を主導した桑弘羊はこの年に国家財政を管掌する治粟都尉に昇進し、そして新たな法を定めたのです。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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