2019年09月13日

漢武帝 張騫の再派遣 張騫は今度は烏孫と結んで匈奴を討つべく西方へ使いするが、烏孫は漢を知らず同盟を拒否するも、河西回廊に通商路が開かれる

 翌前119年、張騫は匈奴との戦いを有利にすすめるべく、月氏との同盟に代わる新たな策を武帝に具申し、認められます。その策とは、烏孫との同盟でした。

 烏孫はかつて匈奴に服属していたのですが、現在の王である昆莫(こんぴ)の父が匈奴に殺害されたことから、西方へ逃れて匈奴から離れていました。この烏孫を、漢に降伏した渾邪王の土地に入植させ、漢と結んで匈奴に対抗しよう、というのです。

 このような策は、仮に短期的には成功したとしても中長期的に見れば新たな脅威を呼び込むだけに見えるのですが、武帝はこれを認めて張騫を再び西方へ送り込みました。

 張騫の一行は300人、途中の食料とするべき牛や羊は数万匹、更に、交渉に入るための原資として数千億にもなる財物を携え、旅立ちます。この頃には漢の連年の攻勢により匈奴の居住地は北方に移っていましたから、一行は匈奴に捕まること無く烏孫に到着します。

 しかし、烏孫は名前も聞いたことがない漢と結んで身を持ってその恐ろしさを知る匈奴と対抗する案には賛成しませんでした。しかも、烏孫王は老齢で、後継者を巡っての争いで国内は政情不安に陥っていたという、漢にとっては最悪のタイミングです。やむなく、張騫は大宛(フェルガナ)や大月氏といった周辺国に副使を送り、帰国することになります。

 帰国の際、烏孫は数十人の使者を張騫に同行させ、漢の様子を見させることにします。彼らはここで初めて漢が大帝国であることを知り、以後は交易ルートが結ばれるようになっていきました。交易において、中国からの最も重要な輸出品は絹で、ブドウやザクロなどが輸入されました。ということは、ワインもこの頃に入ってきたのですね。

 武帝の次の皇帝である昭帝の倍葬抗からラクダの骨が発見されています。わざわざ副葬されているのですから、中国では見られないこの動物は珍重されたようです。

 この交易ルートこそ、後にシルクロードとして知られるものです。当然、絹に因んだものですね。また、ギリシア語で中国をセレスと呼ぶのも、このシルクに因んでいます。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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