2019年09月05日

漢武帝 張騫の帰国1 出国した直後に匈奴に捕らえられた張騫の苦難の旅 10年以上の監禁から脱出し、フェルガナに至るが月氏は更に西へ移っていた

 他にも、勝手に諸侯王と君臣関係を結ぶことを禁じた左官の令、勝手に税を重くしてはいけないという附益の律、中央から派遣された官吏が諸侯王の罪過を知りつつ報告しなければ罰せられるという阿党の令など、諸侯王の力を削ぐための法律が制定されていきました。

 これらの施策は皇帝に権力を集中させるもので、郡県制を採用した秦の在り方に近づくものでした。諸侯王の反乱を未然に防ぐという意味では、確かに重要な意味を持っていたのかもしれません。しかし、それはあくまで、皇帝がしっかりと権力を保持できるという前提があってこそ役に立つ仕組みです。政治を見る気概のない、あるいは幼くその能力がない皇帝が現れた場合、どうなってしまうのでしょうか。その答えは前漢が滅ぶところで見ることになるでしょう。

 前126年、なんと、張騫が帰国します。彼は武帝が即位した翌年、月氏と同盟を結ぶための使者として、西方に送られていましたね。

 ところが、張騫は塞外へ出るのとほぼ同時に匈奴に捕まってしまいました。匈奴の軍臣単于は張騫の目的を知ると、「もし匈奴が漢の南の越に使者を送ろうとしたとして、漢はそれを許すかな?」と言って、そのまま勾留してしまいました。

 張騫が決して降ろうとしないことから、匈奴は彼の勇敢さを認め、妻を与えました。張騫には匈奴で子が生まれましたが、それでも任務を全うする意思は消えず、使者の証である、節(節を持った使いだから使節と言います)を手放しませんでした。

 10年以上が過ぎたある日、張騫は匈奴の隙をついて脱出し、西へひた走ります。数十日後、大宛(フェルガナ)へ逃げ込むと、大宛王は漢が豊かな国であることを知っていたため、張騫を歓待し、月氏への道を教えました。月氏は匈奴に追われた後、更に烏孫にも攻撃されて西方へ遁走していたのでした。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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