2019年09月04日

漢武帝 推恩の令 諸王の力を削ぐため、封国の相続を男児に均等に分けさせるよう法律が変わる

 慌てた右賢王は愛妾と側近数百騎のみで包囲切り開き、追撃を振り切って北方へと逃げ去りました。残された者は降伏し、漢軍は男女合わせて1万5000人余り、家畜を数十万頭も鹵獲しました。大勝利です。

 匈奴は敗北したとはいえ、大ダメージを受けたというわけではないため、同年秋には代に侵入してきました。これを受け、翌年に衛青は出撃します。兵力3000の部隊が数万の匈奴に遭遇してしまい、壊滅的な被害を受けるということもありましたが、局地戦では勝利も収めたため痛み分けといったところでした。戦果という面では得るところは無かったのですが、他の点では良いこともありました。衛青の姉、衛少児の子霍去病の活躍です。

 霍去病はこの年に18歳となり、侍中に取り立てられました。

 騎射に優れた霍去病は叔父の衛青に従って匈奴戦に出征し、800騎の部下を引き連れて敵の領土深く突き進み、味方の数以上の敵を斬り、あるいは捕虜にしたのです。この果敢な行動を武帝は嘉し、1600戸を与え、列侯に取り立てました。

 匈奴との戦いが続く前127年、諸侯の権限を更に奪うことになる推恩の令が出されます。

 漢の成立直後、諸侯王の領地を合わせれば漢の直轄領を大きく上回っていたことは記した通りです。その後、領土の拡大、異姓王の排除や呉楚7国の乱後の領国の取り潰し等により、武帝が即位した頃には諸侯の領地はかなり縮小しており、郡の間に小国が散在するレベルにまで至っていました。特に華北と華中はほぼ直轄領になっていました。

 既に、諸侯王は漢の脅威では無くなっていたように思われます。しかし、呉楚7国の乱の印象が強すぎたのか、まだ諸侯王の力を奪うことにしたのです。

 もちろん、名目は「諸侯の力を削ぐこと」からかけ離れたもので、「皇帝の恩を子弟に等しく推し及ぼす」というものでした。諸侯王は必ず封地を子弟に分割し、子弟を列侯にしなければならなくなりました。世代を経るごとに諸侯王は脅威ではなくなっていくのです。諸侯王からすれば恩どころか怨だったことでしょう。従来であれば相続など許されなかった次男以降の男児についてはその限りではないでしょうが。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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