2019年09月03日

漢武帝 飛将軍李広3 平民に落とされた李広だったが、その手腕と知識は捨て置かれず、匈奴が遼西の太守を攻殺した後、李広は復権を遂げる

 何とか生還した李広でしたが、敗戦の罪は死罪相当です。やむなく金銭で贖って庶民へ落とされました。これでは将軍はたまったものではありませんよね。

 漢初は戦いが続いたため、敗戦にも理解があったのでしょうが、戦乱の世の中になると理念ばかりが先行して、このような過激なことになっていったのでしょうね。平和な江戸時代になって、武士道だの刀は武士の魂だのと、現実から遊離した夢物語が語られるようになったのと同じような話かもしれません。

 ただ、暫くして匈奴が遼西に侵入し、太守を殺して将軍の韓安国も敗走させる、という事件が起こります。もっと果敢な将軍が必要とばかりに、漢は韓安国を左遷して李広を右北平の太守に任命しました。

 復権を遂げた李広は再び匈奴相手に一歩も引かない戦いを繰り広げます。匈奴は漢の飛将軍と呼んで恐れたと伝えられますが、流石にそれは大げさな話で、「端倪すべからず人物である」と評価されていたことでしょう。

 李広が気を吐いたとしても、漢と匈奴の国境線は余りに長く、とても防衛しきれません。

 防御側はその広い国境線を守らなければならないのに対し、攻撃側は最も攻撃しやすい一箇所を、それも攻撃しやすいタイミングで選択すれば良いのです。加えて、遊牧民族は家畜を放牧するために広い土地を必要とはしますが、常に決まった土地を守る必要はありません。仮に漢軍がやってきても、不利と見れば北方に去ってやり過ごし、漢軍が去った後で元の土地に戻れば良いのです。

 辺境に有能な将軍を張り付けても、侵入を全て防ぐことは出来ないのです。

 匈奴は翌年も侵入し、住民4000人ほどが殺されます。

 前128年、衛青は3万の騎兵を率いて出撃します。匈奴の右賢王は、衛青が自分の陣地までやってくることはなかろうと高をくくり、酒に酔っていました。衛青は夜間に軍を進めて右賢王の軍を包囲してしまいます。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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