2019年09月21日

漢武帝 均輸法 前115年、物資の質の確保と輸送費削減を目的に、均輸法が制定される 

 ややこしいことに、どうせだからと武帝即位に遡って元号が設定されました。即位した前140年から前135年が建元、前134年から前129年が元光、前128年から前123年が元朔と続きます。よほど「元」に思い入れがあったのでしょうね。

 元号の発明さえ無ければ、現代の日本で年齢の計算がややこしいという、大変に非合理的なものが使われることは無かっただろうにと思うと、少々残念な出来事だったように思います。

 同じく前116年、張湯が自殺に追い込まれます。張湯は五銖銭鋳造や塩鉄専売に力を注いだ実務官僚で、法律を厳しく適用する酷吏として当代を代表する人物です。武帝の信任も厚く、張湯が謁見して武帝と語り合うと、武帝は飲食すら忘れるほどでした。張湯が病にかかると、武帝は自ら見舞った、と伝えられます。

 一方で、張湯に取り締まられた側は恨みを忘れず、張湯を訴えていました。致命傷となったのは、趙王や丞相荘青翟らに訴えられたことです。張湯は訴えを認めませんでしたが、親交のある趙禹に勧められ、「朱買臣らに陥れられた」と遺書を残して自害しました。

 張湯は法律を厳しく適用し、違反があれば王族であろうとも容赦なく取り締まりましたが、私腹を肥やすことには関心が無かったようで、死後に残されたのはただ下賜された金500斤があるだけでした。

 遺された息子たちは張湯を厚く葬ろうとしましたが、母親は「湯は大臣となりながら悪評を得て死んだのですから、厚く葬ってはなりません」と反対しました。それを知った武帝は、「この母でなければ、あの子は生まれまい」と讃えたそうです。後に、張湯の疑惑は調べ直され、張湯を訴えた丞相長吏の朱買臣らは誅殺され、丞相の荘青翟は下獄して自害しました。

 2002年、薄葬された小さな墓から、「張湯 張君信印」、「張湯 臣湯」の印が発見されました。史記の記す通り、張湯は薄葬されたのでした。

 前115年、均輸法が制定されます。これは、この年に大農の副官(丞)となった桑弘羊の献策によるものです。『秦漢帝国 (講談社学術文庫)』によれば、その中身は以下のようなものだったようです。

これまで政府が必要とする地方の産物は、商人によって買い集められ、その代金は、郡国の租税の一部によって支払われていた。しかしその物品を中央に送る方法が煩雑で、輸送費もかさみ、また、物品そのものも粗悪であった。そこで政府は地方に均輸官を設置して、以後、この均輸官に物品の購入と中央への輸送を担当させる、ということである。


 きっと、商人は集めたもののうち、質の悪いものを中央に送り、しかも流通が煩雑であることを利用してより多くの輸送費を得られるようにしていたのでしょうね。政府から見れば、支出は減り、納品の質は上がり、しかも物流の把握は容易になるわけですから、願ったり叶ったりです。商人にはたまったものではなかったことでしょうが。

 前113年、淫楽に耽ったことを紹介済みの中山靖王劉勝が死去します。その爵位は嫡子の劉昌が継ぎました。この劉勝の墓が、1968年に発見されています。その遺体は玉を金糸でつなぎ合わせて全身を覆われていました。これを金縷玉衣と言い、実物が発見された最初の事例となりました(現在では20例ほどが発見されているようです)。

 金縷玉衣で遺体を覆ったのは、いつか魂魄が体に戻ってきた時に体が腐っていないようにしていたということで、古代中国人の死生観も感じられますね。


秦漢帝国 (講談社学術文庫)
秦漢帝国 (講談社学術文庫)

面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月22日

漢武帝 南越併呑1 南越の王族は漢からの人質要求を拒否 漢は越の太后の昔の愛人を使者に送り込む

 さて、劉勝が世を去ったのと同じ前113年、漢は南越へ軍を派遣します。

 武帝は前135年に閩越に攻められた南越を救ったことがあります。これが武帝の対外攻勢の嚆矢となったのでしたね。?越の攻撃を受けた時の南越王は趙佗の孫の趙胡でしたが、このときには更に趙胡も没しており、超胡の孫の趙興が即位していました。

 趙興の父で先代の王の趙嬰斉はかつて長安で人質となっていたことがありました。趙嬰斉はここで見初めた女性との間に趙興を設け、皇后としたのでした。この皇后、いえ、趙嬰斉没後は太后は、趙嬰斉に見初められる前に安国少季なる人物と親密な関係にありました。

 漢は何度も趙胡や趙嬰斉に入朝を求めていましたが、彼らは下手に長安に赴いて囚われの身になっては面白くないと、病気と偽って入朝を拒否し続けていました。

 趙興が即位すると、漢は彼にも入朝を促す使者を送ってきたのですが、問題はその人選です。なんと、選りにも選って、太后の過去の男・安国少季こそがその使者でした。どう考えても偶然ではありえない人選ですよね。武帝または側近が事情を知って、過去の男の説得なら受け入れられると踏んだか、はたまた安国少季が立候補したか、いずれかでしょう。

 2人はたちまちよりを戻し、密会するようになります。太后は中国出身ですから、南越人ばかりの環境を好んでいなかった、というようなことが背景にあるのかもしれません。

 しかし、異国の使者が太后としばしば、それも人目を忍んで会っていれば、露見するのは時間の問題ですよね。案の定、少なからぬ者が事情を知り、そして太后の言うことを聞かないようになっていきました。このまま放置していれば、あるいは反乱にまで至るかもしれないと考えた太后は、漢の権威を頼ろうとし、南越は漢に臣従するのが良いと主張し始めました。

 南越王は母の主張を容れ、3年に1度の入朝や国境の関所の廃止を申し出ました。漢に否やがあるはずもありません。武帝はこの願いを許可しました。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月23日

漢武帝 南越併呑2 南越の丞相呂嘉、漢に傾きつつある王族への反発を集め、王族との対立が深まる 漢は強硬策を採用、小部隊を南越に送る

 南越の高官には漢から職位を表す印綬が与えられ、漢と同じ法律が適用されることが命じられました。漢では廃止され、南越では残っていた肉刑も同様です。

 しかし、独立していた国が他国に服従するということになれば、面白くないと思う者は大勢いるものです。そうした人々の望みを担うことになったのが、丞相の呂嘉です。

 呂嘉は趙胡の代から3代に渡って仕えてきた老臣で、その一族は王家とも縁戚関係で深く結びついていました。異民族出身の王よりも、呂嘉の方が信望を集めていました。こうしたことから、南越人の多くが呂嘉のためには労を厭わなかったのです。この呂嘉は王族の入朝に反対し、漢の使者との面談も拒絶しました。

 太后や漢の使者は呂嘉に対して疑心を深めていきました。状況を変えようとしたのは太后たちです。彼らは宴会を開き、その席上で呂嘉らを捕らえて処刑しようと図ったのです。

 しかし、呂嘉は挑発的な質問にも自制し、逮捕の口実を与えませんでした。

 宴会は流血を見ること無く終わったのですが、以後はどちらが先に動くか、というだけの話だったのでしょう。いえ、正確には、そのことを呂嘉は見抜いていましたが、年若い南越王は呂嘉を殺す気はなく、太后は人望がないため呂嘉を殺させることはできませんでした。

 武帝はこの状況を知り、ただ呂嘉だけが反乱を起こそうとしているのなら、兵士を2,000ほども送っておけば十分だと判断します。

 荘参なる者は、「友好のための使者であれば数人で足りるでしょうし、戦争のためであれば2,000では足りません」と中途半端さを諌めました。しかし、武帝はこの忠言を嘉せず、荘参を免職にしてしまいました。

 代わりに韓千秋という壮士の主張が採用されます。彼は「200人もあれば必ずや呂嘉を斬ってみせます」と大言壮語して任されたのです。武帝は韓千秋に200、太后の弟に2000の兵を授けて南越へ送り出しました。何やら、楚を攻めるには60万が必要と行った王翦に対して20万で十分と主張した李信の事例に似ていますね。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月24日

漢武帝 南越併呑3 南越は漢の送り込んだ小規模部隊は全滅させるが、続いて送られてきた大軍には抗し得ず、滅ぼされて漢の一地方となる

 この中途半端な兵力は、呂嘉個人にとっては脅威ですが、南越国としてはなんということもないものです。呂嘉が生き延びるには、南越の軍を手中に収めなければならなくなったわけです。

 呂嘉は、この場合に取るべき行動を躊躇うような人物ではありませんでした。将軍となっていた弟と共に兵をあげると、太后と南越王、更に漢の使者を討ち取ったのです。そして、南越王趙嬰斉の異母兄趙建徳を王位に就け、自分の傀儡としました。

 韓千秋らが南越に攻め込むと、南越では敢えて彼らと戦わずに南越深くまで侵入させ、深入りしたところを攻撃して全滅させました。韓千秋の大言壮語は身を滅ぼすことになったのです。

 武帝は韓千秋の遺児韓延年を取り立て、そして南越へは伏波将軍路博徳、楼船将軍楊僕らの率いる大規模な軍を送りました。

 ちなみに、この「伏波将軍」や「楼船将軍」は、政府の役職として存在するものではなく、役割や攻撃地点を冠したもので、雑号将軍(ざつごうしょうぐん)と呼ばれます。武官の最高位である大将軍を始めとするいくつかの○○将軍は常設されているものですが、雑号将軍は常設のものではありません。

 南越はこのような大軍に対抗するだけの力はありませんでした。趙建徳と呂嘉は城を固めますが、漢軍は鎧袖一触これを葬ってしまいます。趙建徳と呂嘉は海上に逃れますが、それも僅かな時間稼ぎにしかならず、両名とも捕らえられ、南越は呆気なく平定されました。趙佗が王となってから93年目のことでした。

 南越の故地には蒼梧や交阯など9郡が設置されました。後の三国時代、士燮が独立勢力を築き、ここから密かに南蛮と連絡を取るようになっていきます。

 前110年、平準法が制定されます。均輸法を主導した桑弘羊はこの年に国家財政を管掌する治粟都尉に昇進し、そして新たな法を定めたのです。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月25日

漢武帝 封禅の儀1 宝鼎が発見され、黄帝のときと同じだとか周の遺徳を継ぐものだとの阿諛追従が行われたことから泰山の儀式が話題に登る

 平準法とは、均輸法の欠点を埋め、かつ民衆の負担を軽減するもので、その内容は『秦漢帝国 (講談社学術文庫)』によれば以下のものです。

均輸法の施行後、中央の各官庁はそれぞれ官吏を地方に派遣して必要物資を購入していたので、その競争によって物価が騰貴し、輸送費すらつぐなわぬという事態がおこった。そこで桑弘羊は各郡国に均輸官を増設し、それぞれの地方において、物価低落のばあいに買い付けを行って物価を引き上げる方策をとり、一方では、首都長安に平準官を設置して、地方で購入した物資をここに貯蔵し、物価が騰貴すると、これを販出して物価を引き下げることとした。


 この考え方は、理論化こそされていないものの需要供給曲線に基づいた物価の安定策そのものですね。

 均輸法と平準法とは、大商人が利益を得ていた利益を国家が得るようにした、という性格を持ちます。これで国庫は潤うようになりました。

 同じく前110年、武帝は泰山で封禅の儀を行おうとします。

 これに先立つ前122年、武帝は雍に行幸し、白麟を捕えました。済北王はこの吉兆があったからには封禅の儀を行うべきとし、泰山と付近の地域を献上しています。

 前116年には自らが地を祀るために建てさせた后土祠という祠の傍らから宝鼎が発見され、黄帝の時と同じと唱える者が現れます。どう考えても阿諛追従の輩が埋めたとしか思えないのですが、信心深い武帝はこれを信じます。周の鼎を継承するとの意見がでたことがきっかけとなり、封禅の議論が始まりました。

 しかし、封禅の儀を行うには大きな問題がありました。

 伝説を除けば、封禅の儀を執り行ったのは秦の始皇帝のみです。その始皇帝も、何をやるべきか分からずに独自の儀式を採用したわけですが、その詳細もまた伝わっていませんでした。いえ、それどころか、武帝の時代には始皇帝は封禅の儀を行おうとしたが、天候悪化のため泰山に登ることができなかった、と噂されていました。つまり、武帝には手本とすべきものが何もない状況だったのです。

秦漢帝国 (講談社学術文庫)
秦漢帝国 (講談社学術文庫)


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村