2019年09月16日

漢武帝 李広の死2 言い訳を延々とするよりも、李広は潔い死を選ぶ

 李広は、これまでの戦いに次ぐ戦いの日々を思い返すと、「私が道に迷ったのであって、部下に罪はない。今から自分で報告書を書く」といって、本営に向かいます。そして直属の部下に、「私は元服してより、匈奴と70回以上戦った。幸いにも大将軍に従って遠征して匈奴の単于と戦えるものかと思っていたが、周り道を命じられた上に道に迷ってしまった。これも天命であろう。齢60を越え、いまさら木っ端役人の相手などしたくない」告げると、自ら首を刎ねて死にました。

 将校以下、兵士たちは皆涙を流して李広の死を悼んだそうです。

 一方、驃騎将軍霍去病は副将を設けず、李広の子の李敢らに幹部にして自ら匈奴の敵中深く侵入します。そして、遭遇した匈奴の左賢王の軍と戦い、衛青以上の戦果を挙げました。帰国後に武帝が霍去病を嘉した言葉によれば、捕らえた捕虜は70,443人に上ったということです。

 衛青を圧倒的に上回る戦果ですね。論功行賞では、衛青やその部下には加増が無かったのに、霍去病の軍は霍去病に5,800戸が加増されたことを始め、多くのものが恩賞に預かりました。その中には、李広の子の李敢も含まれています。

 衛青の唯一の報奨といえば、新設された大司馬の位に霍去病と共に任じられたことくらいでしょうか。

 しかし、それまで軍人として位階トップであった大将軍と驃騎将軍の位を同等にするように定められましたので、甥と比べると露骨なまでに差をつけられたことになります。

 誰がどう見ても、武帝の寵は霍去病にあることが分かります。衛青を頼っていた者の多くは霍去病に付き、そして出世していきました。この時に節を曲げなかった人物に、任安なる者がいます。彼の名前はもう少し後に見ることになるでしょう。

 もっとも、霍去病は金品に執着したわけではありません。武帝から大邸宅を与えられた際にも、「匈奴が滅びないうちは家のことを考える暇はありません」と言ったと伝えられます。ただ、金を求めたわけではなくても部下に思いを馳せることはできなかったようで、遠征の際に与えられた大量の糧食は余っているのに兵士は飢えてやせ細っていたそうです。


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2019年09月17日

漢武帝 勝利の裏側 大量の軍馬が失われたためこれ以上の攻勢は不可能に 戦費の消費も著しく、財政はとても耐えられないレベルだった

 さて、勝利は華々しいものだったのかもしれませんが、漢の被った損害もまた、甚大なものでした。遠征に向かったウマは14万頭でしたが、帰国したのは3万に過ぎません。勝利を挙げた霍去病にしても、その軍の3割は失われていたのでした。

 大量のウマを失ったことは、漢から匈奴への攻撃が困難になったことを意味します。一方、大敗が続いたことから匈奴は北方へ大きくその勢力を後退させましたから、両者の戦いは大きく減じました。匈奴がもし漢の実情を知っていれば、また別の歴史があったのかもしれません。

 対匈奴戦争が困難になったのは、ウマ不足だけではありません。戦費の不足も問題になっていました。『概説中国史〈上〉古代‐中世』にはその戦費のとてつもない規模が紹介されておりますので、引用しておきます。

例えば、匈奴を漠北に駆逐した元狩4年(前119)の戦闘では10万騎が出撃しているが、居延漢簡に記載される1ヶ月の食料(戍卒は脱穀済穀物40l弱、伝馬は116l強)で計算すると、10万騎が1ヶ月遠征するには1560万l(200lドラム缶78,000本相当)の穀物が必要になる。手柄を立てた兵士への報奨は黄金20万斤(1斤=256gなので50数t)に上り、渾邪王が投降した元狩2年(前121)の支出は直接軍事費に渾邪王出迎え費用なども含めて100億銭余になった。


 こうしたこともあり、保有する財産に応じて賦課される算訾(さんし)が増税されました。合わせ、船や車にも課税されるようになりました。

 脱税防止として密告を奨励する告緡令も発布されています。これは財産の一部または全部を隠匿していることを密告し、有罪が確定すると、財産は没収されて1年間の辺境警備を命じられるという過酷なものでした。しかも、有罪となった場合には、密告者に没収した財産の半分が与えられたのです。これはもう、密告し放題ですね。この法律により、没収された物の値段は億に上り、奴婢は1千万に上った、と言います。流石に、奴婢が1千万というのは「白髪三千丈」的なものだとは思いますが。

概説中国史〈上〉古代‐中世
概説中国史〈上〉古代‐中世


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2019年09月18日

漢武帝 武帝の貨幣改革 白鹿の皮から作った皮幣や合金からなる貨幣が造られたが、贋金が大量に造られ、改革は破綻

 ともあれ、この法律に選って多くの商人が破滅に追い込まれていくことになります。

 ちなみに、この頃の丞相は李蔡という、李広の従兄弟に当たる人物でした。では李蔡がこれらの政策を仕切ったのかというとそうではなく、丞相はもうお飾りの存在となっていて、実務上の官吏のトップは御史大夫となっていました。すなわち、張湯が実務のトップでした。

 前120年には白シカの皮で作った皮幣を40万銭で売り、宗室の入朝時はこの皮幣で払わせるようにしたのですが、100億銭を作るには25,000枚も必要ですね。とても賄えません。他にも、銀と錫の合金からなる貨幣で、300銭、500銭、3000銭の3種類のものが作られました。

 もし貴方が狩りをしていて、白シカを得たらどうしますか?私なら、皮幣を作ってしまうように思います。また、銀と錫の合金で作った貨幣も、銀の価値よりも著しく価値が高かったので、盗鋳すれば差額で大儲けできる状況でした。その防止策として、盗鋳を行った者は死刑にするという厳しい法律が定められましたが、盗鋳が相次ぎ、わずか1年で皮幣、白金は中止に追い込まれました。

 しかし、税の納入は銭と決まっています。貨幣が行き渡らないことには、社会は回らないのです。

 そこで、前119年(衛青、霍去病らの遠征の年ですね)に、5銖銭の制度が定められます。これは重量が5銖、名目も5銖という、盗鋳の旨味を無くしてしまう方策でした。結局、貴金属を貨幣にする場合、盗鋳を防ぐにはこれしか手段が無いのですよね。これは現代も同じ話で、偽札を防ぐために各国は特殊なインクを使用したり透かしを入れたりと様々な工夫を凝らしています。その一方で、国を上げて偽札を作っている北朝鮮のような国も存在するのですが(スーパーノートと呼ばれる精巧な100ドル札は既に回収されている分だけでも4900万ドルにも達するそうです)。

 5銖銭の円形方孔という形状は唐の開元通宝(開通元宝と読むのが正しいとの説も有力です)に引き継がれていきます。また、日本で最初の流通貨幣である和同開珎もこの形状なので、日本にも影響を与えた改革になりますね。


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2019年09月19日

漢武帝 塩の専売 贋金の蔓延に苦しんだ漢、桑弘羊の案で塩の専売を開始する 塩を専売にすることができる背景について

 実際に5銖銭の流通が始まったのは、翌年の前118年からです。しかし、銭の発行を諸侯国にも許していたことから、品質のバラツキが非常に大きく、前113年に貨幣鋳造を漢中央のみが行えるようにするまでは盗鋳が相次ぎました。死刑になった者が数十万人に及ぶ、とされます。
人口3000万程度の当時で数十万人ということは、人口の1〜2%が処刑された計算なので、流石に大げさだと思いますが。

 前117年には爵位を1級17万銭で売り出していますが、これでもまだ足りなかったようです。

 そこに現れたのが、桑弘羊という経済官僚です。

 桑弘羊は洛陽の商人の父から生まれ、算術に優れていることから若干13歳で侍中となったという、天才肌の人物です。この桑弘羊が唱えたのが、塩や鉄の国家専売制でした。

 生物は塩が無ければ生きていくことができません。もし、塩が酸素のように各地に遍く存在するのであれば、それを財源にするのは難しかったのでしょう。しかし、広大な中国では海から塩が得る他は僅かな塩井、塩水湖からしか塩を得ることができませんから、流通を比較的容易にコントロールできるのです。呉楚7国の乱において、呉の豊かさの背景に海水を煮て塩を得ていたとあるのはこのことです。

 塩は民間で生産され、その全量を国家が購入する形を取りました。安価に購入可能な塩は、競争相手もいないことから、国が必要と考える値段で民間に売却されました。ということは、値段を釣り上げ放題だった、というわけです。そして、塩は生命活動に必須のものですから、どれほど高くても誰もが購入しなければならなかったのです。

 こうした特徴から塩の専売は長く続き、民衆の怨嗟の的になっていました。唐末期、安禄山の乱などで屋台骨がガタガタに崩れていた唐に止めをさすことになる黄巣の乱も、この塩の専売を背景とするものです。

 塩が必須というのは人類に共通の話ですから、給与を意味するサラリーのもとになったラテン語のsalariumが塩saltを語源にするのも無理からぬところです。


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2019年09月20日

漢武帝 霍去病の死 前117年、霍去病は24歳の若さで世を去り、息子の霍嬗が後を継ぐ 元号の始まり

 一方、農機具に欠くことが出来ない鉄についても、鉄鉱石の産地が限られていることから専売が容易でした。こちらは全国50箇所の鉄鉱石の産地に鉄官を置いて製鉄と鉄器販売を監督させる方式でした。

 塩や鉄への徴税そのものは、専売制以前にも行われていました。しかし、それは民間業者への課税に留まり、また納税先も皇室の財を管轄する少府でした。ということは、どれだけ納税があったとしても、それは戦費不足に対する解決策とは成り得なかったことを意味します。そこで、まずは塩と鉄の収税を国家財政を管理する大農へ移すところから改革がはじまります。

 これらの改革が実ったこと、匈奴への大掛かりな出兵が無かったことなどから、漢の財政は大きく改善していくことになります。

 対匈奴との戦いが止んでいる前117年、霍去病は死去します。享年、24歳でした。成人してからは匈奴との戦いに次ぐ戦いで、匈奴との戦いが一段落ついたところで亡くなったことになります。その戦果について、史記衛将軍・驃騎列伝は「出撃総計6回、斬首・捕虜は11万余りで、渾邪王を降伏させ、河西回廊や酒泉を漢の領土とし、匈奴の侵入は少なくなった」とまとめています。匈奴と戦うために生まれてきたような人生ですね。

 爵位は息子の霍嬗が継ぎました。武帝は霍去病の死を悼み、霍嬗についても格別の待遇をしています。特別扱いについては後に見ることになるでしょう。

 前116年、瑞祥が現れた、等の事由で時代を区切り、名称を付けるべきだとの上奏がありました。それまでも、改元そのものは存在し、例えば文帝も改元をしています。しかし、従来は今○年というだけでした。今上陛下の○年、というだけの言い方です。これに対し、時代区分に名前をつける、ということにしたのです。

 元号の始まりです。まずは宝鼎が見つかったことから、元鼎という元号をつけました。



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