2019年09月11日

漢武帝 東方朔2 博覧強記で怪異にも詳しく、その名は伝説となって「鶴は千年亀は万年、東方朔は八千歳」と謳われた

 博覧強記で怪異にも詳しく、函谷関で武帝の行く手を塞いだ怪物の正体を消す方法を教えた、などという荒唐無稽な話も伝わっています。後世では話に尾鰭が加わっていき、やがて西王母の飢えた3000年に1度しか実をつけない桃の実を3つも盗んだなどとどんどん人間離れした物語ができていきます。その桃を食べた東方朔の寿命は8000歳になり(ということは、まだご存命なはずなのですが、残念ながら武帝が死ぬ前に世を去っています)、「鶴は千年亀は万年、東方朔は八千歳」などという言葉まであるそうです。

 日本の能の演目『東方朔』は、この西王母の桃を扱った話とのことですので、興味がある方はぜひご覧になってみてください。
彼は実際に有能だったようですが、それ以上に話も面白かったそうです。短気な武帝も、東方朔と話をすると機嫌が直り、食べ物や金品を下賜しました。

 東方朔のように、有能な上にユーモアも持つ天才超人には武帝も良い君主だったのかもしれませんが、通常の能力の持ち主には厳しかったのでしょう。

 話が逸れました。

 前121年、武帝は霍去病を驃騎将軍に任命し、1万の騎兵を与えて匈奴に向かわせます。隴西から出撃した霍去病は5つの国を踏破し、転戦して折蘭王を殺し盧胡王の首を得、さらに渾邪王の子を捕らえ、首級と捕虜は合わせて8,000にもなるという大勝利を挙げました。
この功績で霍去病は2,000戸を加増されました。

 同年夏、霍去病は公孫敖や張騫らと共に再び匈奴攻撃に向かいます。張騫と李広は霍去病とは別れて進軍したのですが、李広の部隊4,000が洗浄に着いたところで匈奴の左賢王率いる数万の軍に遭遇してしまいます。

 李広は寡兵ながらよく戦い、半数以上の兵を失いながら、匈奴にも自軍を越える損害を与えました。そこに張騫の部隊が到着したため、匈奴は兵を引いています。



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2019年09月12日

漢武帝 霍去病無双1 公孫敖軍との合流に失敗した霍去病、自軍だけで匈奴深く攻め入り大戦果を挙げる 敗戦の責任を取らされそうになった渾邪王は漢に降る

 一方、霍去病の軍は公孫敖の部隊との合流に失敗したのですが、自分たちの部隊だけで居延の河を越え、祁連山にまで至り、匈奴と戦って大戦果を挙げました。武帝が「降伏したもの2,500人、あげた首級と捕虜は30,200、5人の王、5人の王の母、単于の閼氏(単于の正妻の称号)、王子59人、相国・将軍・当戸・都尉あわせて63人をとらえた」(『史記列伝 4 (岩波文庫 青 214-4)』ただし、漢数字は引用者にてアラビア数字に置き換えた)と称える大勝利です。

 なお、張騫は進軍が遅延したことを罪で、公孫敖もまた道を誤った罪で死刑を宣告されますが、両名とも金で罪を贖っています。

 霍去病の赫々たる武勲の背景として、武帝がこの若き将軍を愛し、最精鋭の部隊を与えていたこともあります。しかし、それだけを理由にするのは霍去病に対して失礼でしょう。彼は常に陣頭に立ち、敵中深く入り込むことを躊躇しませんでした。

 彼の性格を物語る逸話に、武帝が霍去病に孫子・呉子の兵法を教えさせようとしたところ、彼は「ただ戦略をどうするかが問題なだけです。昔の兵法など学ぶ必要はありません」と謝絶したというものがあります。ということは、彼の栄光は本人の判断とセンスが生み出したものなのですね。

 幸運もあったのでしょうが、彼が優れた将軍だったことは間違いありません。

 漢の大勝利は、すなわち匈奴には大敗です。単于は西方を守る渾邪王が何度も敗北することに腹を立て、処刑しようと考えます。それを知った渾邪王は、休屠王と共に漢に降伏しました。

 渾邪王には莫大な金品が支給されました。なにせ、彼と共に降った人数は数万を数え、これによって漢は河西回廊を握ることになったのですから、武帝にとってはその程度の報奨で済むなら安いものだったのでしょう。

 前120年、匈奴はまたも漢に侵入し、殺害されたり拉致された者は1000人にもなりました。


史記列伝 4 (岩波文庫 青 214-4)
史記列伝 4 (岩波文庫 青 214-4)



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2019年09月13日

漢武帝 張騫の再派遣 張騫は今度は烏孫と結んで匈奴を討つべく西方へ使いするが、烏孫は漢を知らず同盟を拒否するも、河西回廊に通商路が開かれる

 翌前119年、張騫は匈奴との戦いを有利にすすめるべく、月氏との同盟に代わる新たな策を武帝に具申し、認められます。その策とは、烏孫との同盟でした。

 烏孫はかつて匈奴に服属していたのですが、現在の王である昆莫(こんぴ)の父が匈奴に殺害されたことから、西方へ逃れて匈奴から離れていました。この烏孫を、漢に降伏した渾邪王の土地に入植させ、漢と結んで匈奴に対抗しよう、というのです。

 このような策は、仮に短期的には成功したとしても中長期的に見れば新たな脅威を呼び込むだけに見えるのですが、武帝はこれを認めて張騫を再び西方へ送り込みました。

 張騫の一行は300人、途中の食料とするべき牛や羊は数万匹、更に、交渉に入るための原資として数千億にもなる財物を携え、旅立ちます。この頃には漢の連年の攻勢により匈奴の居住地は北方に移っていましたから、一行は匈奴に捕まること無く烏孫に到着します。

 しかし、烏孫は名前も聞いたことがない漢と結んで身を持ってその恐ろしさを知る匈奴と対抗する案には賛成しませんでした。しかも、烏孫王は老齢で、後継者を巡っての争いで国内は政情不安に陥っていたという、漢にとっては最悪のタイミングです。やむなく、張騫は大宛(フェルガナ)や大月氏といった周辺国に副使を送り、帰国することになります。

 帰国の際、烏孫は数十人の使者を張騫に同行させ、漢の様子を見させることにします。彼らはここで初めて漢が大帝国であることを知り、以後は交易ルートが結ばれるようになっていきました。交易において、中国からの最も重要な輸出品は絹で、ブドウやザクロなどが輸入されました。ということは、ワインもこの頃に入ってきたのですね。

 武帝の次の皇帝である昭帝の倍葬抗からラクダの骨が発見されています。わざわざ副葬されているのですから、中国では見られないこの動物は珍重されたようです。

 この交易ルートこそ、後にシルクロードとして知られるものです。当然、絹に因んだものですね。また、ギリシア語で中国をセレスと呼ぶのも、このシルクに因んでいます。


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2019年09月14日

漢武帝 シルクロード 先進的な西方文化との交易により、中国からは大量の黄金が流出するようになる

 しかし、西域との貿易は、漢にとって必ずしも良いものではありませんでした。宮崎市定『中国史(上) (岩波文庫)』はこう記します。

一般に言って、文明の先進国と後進国が接触する際、先進国の工芸製品が後進国に輸入され、これと引替に後進国の貨幣が先進国に向って流出する。中国と西域とを比較した場合、何と言っても西域は古い文明をもった先進国である。もちろん中国にも絹のような特産品があるが、これはむしろ一次産品に近い。これに対し西域からは玻璃(はり)、瑠璃(るり)のような高度の技術によるガラス製品が輸入される。


 中国からは大量の黄金が流出していき、それは中長期的に漢の経済力を低下させることになります。

 西域ルートの開拓そのものは、漢にとってマイナス面もあったことを把握して、歴史の流れに戻ります。

 張騫は前115年に帰国し、外交使節を迎え入れる役所の長官である大行令に任命されました。既に高齢だったこともあり、彼はその3年後に世を去ることになります。

 さて、張騫が2度目の遠征に出発したのと同じ前119年、武帝は「匈奴は漢の兵士が砂漠を越えることはできないと思い込み、同じ場所にとどまっている。大軍をもってこれを撃てば必ずや目的を達することができよう」と言うと、衛青と霍去病にそれぞれ5万の兵を授け、出撃させます。この際、最精鋭の部隊は霍去病に配置されました。

 匈奴の捕虜から匈奴が東にいるとの情報が入ったため、霍去病を代から出撃させて匈奴の本体を狙わせ、衛青は西から進みます。

 衛青の指揮下には、前将軍李広をはじめ、前後左右の名を冠する4将軍が置かれました。

 皮肉なことに、匈奴の本体と遭遇したのは衛青の方でした。しかも、別れて進んでいた前将軍李広、右将軍趙食其は道に迷ったこともあり、戦場に着いていないという状況です。

 ただ、これはもしかしたら、衛青の計算通りだったのかもしれません。

中国史(上) (岩波文庫)
中国史(上) (岩波文庫)



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2019年09月15日

漢武帝 李広の死1 李広の戦死を恐れた武帝は無理に攻撃させないよう衛青に命じていた 衛青は匈奴に勝利するが、単于は取り逃がす

 遠征に際して、李広は出撃を望みましたが却下されています。それでも何度も願うため、根負けした武帝は李広を前将軍に任命し、衛青の指揮下で匈奴攻撃に参加させたのでした。ただし、武帝は李広は老いて、運の悪い人物なので、無理に攻撃をさせないようにと衛青に伝えていました。

 そのため、単于の居場所を捕虜から聞いた衛青は、李広と軍を分け自分は西の道を進み、回り道になっている東の道から李広を進ませたのです。この東側のルートは補給拠点が少なく、大軍が進むには適しません。李広は最前線で匈奴と戦って死にたいと願いましたが、拒否されて東の道へ進みました。

 李広を戦死させないためのこの措置は、逆に李広の運命を決定づけることになるのですが。

 衛青はまず5000の騎兵に匈奴を攻撃させます。匈奴側は1万騎を繰り出してきました。数だけ見れば、漢は圧倒的に不利だったのですが、折よく吹いた強風が両軍の視界を奪います。この隙に、衛青は左右両翼の軍も動かし、匈奴を包囲させます。

 匈奴は不利を悟ると、撤退に移りました。単于もまた、6頭のラバに乗り、精鋭の騎兵数百に守られて西北へと逃げ去りました。現場の騎兵たちは単于の遁走を知らずに戦い続けましたが、遂に全軍が退却しました。

 漢軍は単于が逃げたことを知り、追撃に移ります。しかし、既に単于は捕捉できないところまで逃げていました。

 匈奴側ですら一時は単于の居所を掴めないというほどの大敗北です。右谷蠡(うろくり)王はこれを聞いて単于を称したのですが、単于が生き延びていたことを知ると、自称を取りやめています。

 李広たちは、遂に決戦までに衛青と合流することは出来ませんでした。

 勝利は得たものの単于を捕らえることはできずに引き返してきた衛青たちは、帰路に李広たちと再会します。

 衛青は道に迷った状況を聞くために李広の部隊へ使者を送りましたが、李広は答えません。言い訳をすることを良しとしなかったのでしょう。衛青は、今度は長史を送って報告書の提出を求めました。


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