2019年09月06日

漢武帝 張騫の帰国2 何とか月氏のもとへ辿り着いた張騫だったが、月氏は安定した暮らしを得て匈奴への対抗心を失っていた 帰途もまた匈奴に捕まる

 大宛から康居を経てようやく月氏のもとへたどり着いた張騫でしたが、月氏との同盟は成りませんでした。月氏が逃げ込んだ先は豊かな土地な上に、周りにライバルがいません。おまけに、東西貿易の中間点だったため、安定した生活を楽しんでいたのです。当然、強敵が待ち受け、困難な戦いに勝利しても痩せた土地しか手に入らないというのでは、復讐など考えないでしょうね。

 10年以上の軟禁生活を送って、なんとか目的地に到達したものの、何ら利を得ること無く帰国に途についた張騫の心境には同情しか湧きません。

 しかし、彼にはまだ苦難の未来が待っていました。

 張騫は武帝に復命するため長安に戻らなければなりません。しかし、往路と同じルートでは、みすみす匈奴の捕虜になりにいくようなものです。そこで、彼は崑崙山脈沿いに羌族の地を通るルートを選んだのですが、今回もまた匈奴に見つかってしまい、囚われの身となってしまったのです。

 1年余り後、匈奴では軍臣単于が亡くなったことから、内紛が起こります。この隙に張騫は匈奴の支配下を脱し、そしてようやく漢にたどり着いた、というわけです。

 出発の時、100人余りいた随行者は、なんと2人しか戻ってくることができませんでした。どれだけ過酷な旅だったかが伺われます。

 月氏と同名を結んで匈奴を攻撃するという目的は果たせませんでしたが、張騫の帰国により、西域の情報が漢に届けられたことになります。

 情報の中には張騫自身が訪れた国だけではなく、近隣の国々に関するものも多くありました。こうして知られるようになった国に、ローマを苦しめたパルティアについてのものも含まれています。漢では大月氏の西数千里にある安息として記録されているのがそれなのですが、史記には「定住の生活をして農耕をいとなみ、稲と麦を植え、葡萄酒を作ります」とあって、ローマの記録とは少々違うように見えます。


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2019年09月07日

漢武帝 張騫の帰国3 張騫の得た情報により、漢軍はオアシス伝いに遠征するようになる 張騫は出征するが、集合に間に合わず、平民に落とされる

 なお、香料の1つの安息香はこの安息に由来します。有機化合物で重要な骨格をなすベンゼンは安息香の主要成分である安息香酸から得られたことから名付けられたものです。安息香酸はベンゼン環にカルボキシル基(-COOH)が付いた単純な構造をしているので、高校の化学にも顔を出しますね。学部生の実験でも合成することがあると聞きますので、興味がある方は科学科を進路に選ばれても良いかもしれません。

 話が逸れました。

 張騫が持ち帰った地理情報は、対匈奴戦において非常に重要なものとなります。情報なくしては進撃すら不可能ですから、匈奴との全面対決を考える武帝には、願ってもないものでした。

 更に、張騫は大夏(バクトリア)で、蜀の布などの中国の産物を見て、どのようにしてこれらを手に入れたかを調べます。それはなんと、インドからやってきたものでした。このことから、張騫は蜀からインドへのルートがあることを知ります。これは匈奴を避けて、蜀からバクトリアへ使者を送ることができる可能性を意味するものでした。

 武帝はインドルートを開拓しようと使者を送りましたが、残念ながら他の民族の妨害を受けて野望はなりませんでした。

 余談ながら、唐代に玄奘三蔵がインドへ経典を求めに旅立ったのは、蜀からではなく、長安西北から異民族の土地を抜けていくルートです。ということは、張騫が大夏で見つけた中国の産物が辿ったのとは逆のルートですね。

 以後、張騫は対匈奴遠征に参加し、地理の知識を活かして貢献していくことになります。兵士は渇きに苦しむことはなくなり、勝利に貢献したことで張騫は博望侯に昇進しました。

 翌年の前122年、張騫は衛尉に昇進し、衛青の配下として匈奴攻撃に向かいます。しかし、集合の期日を守ることができなかったことから、死罪を言い渡されます。彼は金で罪を贖い、平民となりました。

 平民とはなっても、張騫の持つ知識は余人をもって代えることはできませんから、政府との連絡は持ち続けたようで、後に復権をみることになります。
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2019年09月08日

漢武帝 淮南王の反乱1 『淮南子』で知られ、匈奴戦に反対だった淮南王劉安、反乱計画を巡らせるが、内通者のため計画は露見し自害する

 同じく前122年、淮南王と衡山王の反乱未遂事件が発覚します。

 淮南王劉安といえば、呉楚7国の乱が起こった際、反乱に与しようとしたものの、部下に兵士を奪われて反乱に参加せず、そのために生き残った人物でしたね。

 彼は入朝した際、武帝が太子を立てていなかったことから、「陛下がお隠れになったら大王様の他に後を継いで即位なさるべき人は他にいらっしゃらないでしょう」と田蚡に言われたことから野望を抱くようになっていたのです。

 また、劉安は対匈奴戦には反対で、そのため兵士の供出を求められても僅かにしか兵を送らず、様子見をしていました。取り調べに当たった中尉は「淮南王の罪は死刑の後に晒し者にすることに相当します」と上奏しましたが、武帝はこれを認めず、淮南から2県を削って済ませました。ところが、この処置に劉安は怒り、伍被と反乱を図ったのです。

 ところが、この計画を伍被が密告してしまいます。いや、これは十分に予見できることでした。劉安が伍被を相手に、反乱の際の軍の配置を相談すると、「なぜ陛下が寛大にも罪を許してお許しくださったのに、なぜそのように国を滅ぼすようなことを仰るのですか」と諌めています。

 淮南王は伍被の両親を牢獄に押し込めて伍被を協力させようとします。しかし、彼はそれでも劉安を諌め、伍子胥を例に引いて死罪を免れようとは思っていない、とまで言って軽挙妄動を止めようとしたのです。

 涙ながらに諌められても、劉安は考えを改めようとはしませんでした。根負けした伍被は渋々主君に策を授けますが、陰謀は好んでも決断はできない劉安は反乱に踏み切ることはできません。

 そうこうしているうちに、伍被が漢の使者に反乱を計画したことを自首してしまったのです。反乱計画に関与した人々は一網打尽に逮捕されました。

 朝廷では丞相の公孫弘、廷尉の張湯らが「淮南王の罪状は死刑に相当します」と奏上したため、武帝は劉安を逮捕するために使者を送ります。しかし、使者が辿り着く前に、劉安は自ら首を掻き切って自害しました。太子の劉遷らも処刑されました。


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2019年09月09日

漢武帝 淮南王の反乱2 戦後処理で、反乱を自首した伍被は処刑され、劉安の一族は滅ぼされる 諸侯王の締め付けは強化される

 反乱計画を自首した伍被については、武帝は許そうとしたのですが、張湯は「伍被は淮南王の反乱計画の中心にいた人物であり、その罪は許されるべきではありません」と上奏したため、伍被もまた処刑されてしまいました。

 こうして淮南国は取り潰しとなり、九江郡へとなったのでした。

 淮南王劉安の弟に、衡山王劉賜がいます。この兄弟は仲が悪く、互いに非難する間柄ではあったのですが、漢に背いて天下を得ようという無謀な陰謀には乗っかろうとしました。彼は領地で領民の墓を壊して自分の農地にしたり、農民の土地を奪ったりして、訴えられようとしていたのです。

 また、劉賜の下に集ってきたならず者たちも反乱を焚き付けました。

 淮南王劉安の反乱計画が露見し、劉安が死んでも、計画に加わった者の捜査は続けられました。遂に劉賜もその一味であったことが暴かれたため、劉賜は取り調べの使者が来る前に自殺して果てました。彼の息子たちを始め、多くの者が処刑され、衡山国もまた廃されたのでした。

 以後、更に諸侯王に対する締付けは更に厳しくなります。

 王朝官吏の王国出仕を禁じる左官の律が制定され、中央から派遣された官吏には諸侯王が犯罪を犯したら報告することが義務付けられました。人事権だけではなく、懲罰権も中央が握ったわけですから、諸侯王にとって官僚は自分の見張り役以外の何者でもなくなったわけですね。
諸侯王だけではなく、列侯にも厳しくなります。祭祀のための酒の費用を諸侯王、列侯に供出させる酎金律なるものが制定されます。規定の量に満たなかったり質が悪いと県を削ったり、列侯だと国を除くというのですから、かなり厳しいものですね。  

 捜査にあたった廷尉張湯の名前は以前にも出ていましたね。陳皇后が武帝を呪ったとされる事件を処理し、陳皇后を廃位し、女官300人が処刑された事件です。その後、彼は廷尉にまで出世していました。


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2019年09月10日

漢武帝 東方朔1 東方朔は木簡3000枚もの自薦の上奏文を奉り、採用される

 張湯の性格について、司馬遷は「偽りが多く、知恵で操った」と散々な評価をしています。しかし、上書を武帝に咎められた際には「部下が帝の仰るとおりのことを進言してくれてはいたのですが、臣が愚かだったためにお叱りを受けることになってしまいました」と、部下を褒めるようにしていたそうですから、部下として仕えるには良い上司だったのかもしれません。

 しかし、武帝が罰したいと思う者は厳しい罰を与える廷吏に、許したいと思う者は寛大な廷吏に審判を委ねたとされていますので、人格は高潔ではないのでしょうね。上司からすれば、自分の望んでいる結果を出すので望ましい部下だったのでしょうが。

 淮南王の反乱はこうして収まったわけですが、武帝は劉安が入朝した際に田蚡が「現在武帝には跡継ぎがいないので、陛下に万一のことがあった場合には王が跡を継がれるでしょう」と言っていたことを知り、激怒して「もし田蚡が生きていれば族滅するところだ」と言っています。田蚡がこのころまで生きていなかったのは不幸中の幸いかもしれません。

 武帝はこの逸話に見られるように極めて激しい気性の持ち主でしたが、それをうまく扱うことができる部下もいました。斉出身の東方朔なる人物です。

 東方朔の名は、史記滑稽列伝に見ることができます(ただし、岩波文庫の『史記列伝 5 (岩波文庫 青 214-5)』は 、司馬遷本人が記したわけではないことが明白であることから訳出されていません)。彼は木簡3000枚(!)からなる自薦を武帝に送ります。曰く、「私は22歳で、勇猛果敢で恐れ知らず、知略に富んでいるので大臣に向いています」というもので、その自信には清々しいものを感じます。

 彼は史書を始め多くの文献を読んでいた(活字中毒者のはしりのような人物だったのでしょう)ようで、3000枚の自薦の木簡も皇帝が読むのに耐えるものでした。武帝は2ヶ月かけて読み、東方朔を気に入って登用しました。

史記列伝 5 (岩波文庫 青 214-5)
史記列伝 5 (岩波文庫 青 214-5)


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