2019年09月01日

漢武帝 飛将軍李広1 呉楚七国の乱に参加して活躍するが、不運も重なり昇進はできなかった 鎮圧後は匈奴との最前線で奮闘、、石に立つ矢の故事を生む

 李広については、文帝と共に狩りにでかけた時に武勇を見せ、高祖の時代に生まれなかったことを惜しまれた人物として既に触れていますね。彼は景帝の時代には隴西の都尉となり、騎兵を率いていました。

 隴西の太守だったとき、羌族が背いたことがあります。李広が降伏するように説いた結果、800人が応じました。しかし、李広は結局彼らを殺してしまいました。従兄弟の李祭は李広と同時期に出仕して出世を重ねていたのに李広がいつまでも出世できないのはそれが原因だと言われたこともあります。

 私としては、李広は功績が大きくても、被害も多いため、評定が低かったのではないかと思います。

 呉楚7国の乱の際には周亜父の指揮下で活躍を見せています。梁王劉武が李広を将軍に任命したのですが、中央の許可を得ていなかったということがあり、恩賞は得られないという不運に見舞われています。

 反乱鎮圧後は対匈奴の最前線である上谷へ転任し連日匈奴と戦います。常に最前線に立つため、才能も気力もある李広がすぐに戦死してしまうのではないか心配した同僚が泣いて上に訴えるほどでした。

 ある時、李広が猟に出て、草むらに埋もれかかった石をトラと見間違え、矢を放ったことがあります。矢は石を貫通した、といういささか真偽の怪しい話も残っています。この故事から、一心に取り組めば成就するという意味の「石に立つ矢」なる言葉が生まれました

 こうしたこともあり、上郡の太守に昇進します。

 匈奴が上郡に侵入すると、景帝は信頼する宦官を李広の下に派遣し、軍を訓練して匈奴を攻撃させようとしました。この宦官が騎兵数十人といるときに、3騎の匈奴に襲われてしまいます。宦官は多くの部下を失い、自身も負傷して李広の下に逃げ帰りました。

 李広は「そいつらはタカ狩りの連中でしょう」と言うと、100騎程で後を追います。3人の匈奴はウマを失い、徒歩で戻ろうとしていました。李広は彼らに追いつき、2人を殺し、1人を捕虜にします。取り調べの結果、彼らは李広の予想通りタカ狩りにきていたのでした。


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2019年09月02日

漢武帝 飛将軍李広2 李広と同時期に活躍した程不識と李広の違い 李広は兵士を自由にさせたことできちんと働かせた

 捕虜を縛ってウマに乗せて匈奴の方を見ると、匈奴の騎兵数千の姿が見えました。戦えば全滅することは確実です。部下の騎兵たちは速駆けして陣地に戻りたいと主張しましたが、李広は逃げ出せば追われて全滅すると言って、匈奴に近づき、ウマから降りて鞍を外すよう命令します。

 匈奴に囮の部隊と思わせたのですね。

 白馬に乗った将校が敵の中から出て、部下に指示を出し始めます。それを見た李広は直ちに10騎余りを率いて突進、将校を射殺して仲間のところに戻りました。そうこうしているうちに日が暮れます。李広は部下にウマを解き放って横になれ、と命令します。匈奴は伏兵による夜襲を疑い、遂に去った、ということです。

こうした活躍で李広の名前は徐々に知られていき、匈奴へ反攻したいと考えていた武帝の耳にも李広の名が届きます。こうして未央衛尉となって中央に召されたのでした。

 同時期に匈奴との最前線で活躍していた程不識という人物も長楽衛尉に任命されます。

 程不識と李広の行軍は対照的でした。程不識は規則を厳格に守らせ、隊列を組み、事務官には夜明けまで報告書を作成させました。兵士は休めなかったのですが、大敗したことは無かったと伝えられます。

 李広は、行軍する際に厳格な隊列は組ませず、休憩をとる時には自由にさせていました。もちろん、文書は簡略です。程不識とは全く違うスタイルですが、李広の軍も大敗したことはありませんでした。

 程不識は、「李広の軍は襲いやすいだろうが兵士が先を争って戦うから、私の軍は厳格だから、敵は襲うことができないのだろう」と評したそうです。兵士たちは李広の下に付くことを願い、匈奴は李広を恐れました。

 今回の遠征では、衛尉のまま将軍に任じられています。そして雁門から出撃したのですが、運悪く匈奴の大軍に遭遇してしまったため、李広は大敗して捕らわれてしまいました。李広は死んだふりをして見張りの油断を誘い、隙を見つけて匈奴の子供からウマと弓を奪い、追手を射殺してなんとか逃げ帰ってきたのでした。


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2019年09月03日

漢武帝 飛将軍李広3 平民に落とされた李広だったが、その手腕と知識は捨て置かれず、匈奴が遼西の太守を攻殺した後、李広は復権を遂げる

 何とか生還した李広でしたが、敗戦の罪は死罪相当です。やむなく金銭で贖って庶民へ落とされました。これでは将軍はたまったものではありませんよね。

 漢初は戦いが続いたため、敗戦にも理解があったのでしょうが、戦乱の世の中になると理念ばかりが先行して、このような過激なことになっていったのでしょうね。平和な江戸時代になって、武士道だの刀は武士の魂だのと、現実から遊離した夢物語が語られるようになったのと同じような話かもしれません。

 ただ、暫くして匈奴が遼西に侵入し、太守を殺して将軍の韓安国も敗走させる、という事件が起こります。もっと果敢な将軍が必要とばかりに、漢は韓安国を左遷して李広を右北平の太守に任命しました。

 復権を遂げた李広は再び匈奴相手に一歩も引かない戦いを繰り広げます。匈奴は漢の飛将軍と呼んで恐れたと伝えられますが、流石にそれは大げさな話で、「端倪すべからず人物である」と評価されていたことでしょう。

 李広が気を吐いたとしても、漢と匈奴の国境線は余りに長く、とても防衛しきれません。

 防御側はその広い国境線を守らなければならないのに対し、攻撃側は最も攻撃しやすい一箇所を、それも攻撃しやすいタイミングで選択すれば良いのです。加えて、遊牧民族は家畜を放牧するために広い土地を必要とはしますが、常に決まった土地を守る必要はありません。仮に漢軍がやってきても、不利と見れば北方に去ってやり過ごし、漢軍が去った後で元の土地に戻れば良いのです。

 辺境に有能な将軍を張り付けても、侵入を全て防ぐことは出来ないのです。

 匈奴は翌年も侵入し、住民4000人ほどが殺されます。

 前128年、衛青は3万の騎兵を率いて出撃します。匈奴の右賢王は、衛青が自分の陣地までやってくることはなかろうと高をくくり、酒に酔っていました。衛青は夜間に軍を進めて右賢王の軍を包囲してしまいます。


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2019年09月04日

漢武帝 推恩の令 諸王の力を削ぐため、封国の相続を男児に均等に分けさせるよう法律が変わる

 慌てた右賢王は愛妾と側近数百騎のみで包囲切り開き、追撃を振り切って北方へと逃げ去りました。残された者は降伏し、漢軍は男女合わせて1万5000人余り、家畜を数十万頭も鹵獲しました。大勝利です。

 匈奴は敗北したとはいえ、大ダメージを受けたというわけではないため、同年秋には代に侵入してきました。これを受け、翌年に衛青は出撃します。兵力3000の部隊が数万の匈奴に遭遇してしまい、壊滅的な被害を受けるということもありましたが、局地戦では勝利も収めたため痛み分けといったところでした。戦果という面では得るところは無かったのですが、他の点では良いこともありました。衛青の姉、衛少児の子霍去病の活躍です。

 霍去病はこの年に18歳となり、侍中に取り立てられました。

 騎射に優れた霍去病は叔父の衛青に従って匈奴戦に出征し、800騎の部下を引き連れて敵の領土深く突き進み、味方の数以上の敵を斬り、あるいは捕虜にしたのです。この果敢な行動を武帝は嘉し、1600戸を与え、列侯に取り立てました。

 匈奴との戦いが続く前127年、諸侯の権限を更に奪うことになる推恩の令が出されます。

 漢の成立直後、諸侯王の領地を合わせれば漢の直轄領を大きく上回っていたことは記した通りです。その後、領土の拡大、異姓王の排除や呉楚7国の乱後の領国の取り潰し等により、武帝が即位した頃には諸侯の領地はかなり縮小しており、郡の間に小国が散在するレベルにまで至っていました。特に華北と華中はほぼ直轄領になっていました。

 既に、諸侯王は漢の脅威では無くなっていたように思われます。しかし、呉楚7国の乱の印象が強すぎたのか、まだ諸侯王の力を奪うことにしたのです。

 もちろん、名目は「諸侯の力を削ぐこと」からかけ離れたもので、「皇帝の恩を子弟に等しく推し及ぼす」というものでした。諸侯王は必ず封地を子弟に分割し、子弟を列侯にしなければならなくなりました。世代を経るごとに諸侯王は脅威ではなくなっていくのです。諸侯王からすれば恩どころか怨だったことでしょう。従来であれば相続など許されなかった次男以降の男児についてはその限りではないでしょうが。


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2019年09月05日

漢武帝 張騫の帰国1 出国した直後に匈奴に捕らえられた張騫の苦難の旅 10年以上の監禁から脱出し、フェルガナに至るが月氏は更に西へ移っていた

 他にも、勝手に諸侯王と君臣関係を結ぶことを禁じた左官の令、勝手に税を重くしてはいけないという附益の律、中央から派遣された官吏が諸侯王の罪過を知りつつ報告しなければ罰せられるという阿党の令など、諸侯王の力を削ぐための法律が制定されていきました。

 これらの施策は皇帝に権力を集中させるもので、郡県制を採用した秦の在り方に近づくものでした。諸侯王の反乱を未然に防ぐという意味では、確かに重要な意味を持っていたのかもしれません。しかし、それはあくまで、皇帝がしっかりと権力を保持できるという前提があってこそ役に立つ仕組みです。政治を見る気概のない、あるいは幼くその能力がない皇帝が現れた場合、どうなってしまうのでしょうか。その答えは前漢が滅ぶところで見ることになるでしょう。

 前126年、なんと、張騫が帰国します。彼は武帝が即位した翌年、月氏と同盟を結ぶための使者として、西方に送られていましたね。

 ところが、張騫は塞外へ出るのとほぼ同時に匈奴に捕まってしまいました。匈奴の軍臣単于は張騫の目的を知ると、「もし匈奴が漢の南の越に使者を送ろうとしたとして、漢はそれを許すかな?」と言って、そのまま勾留してしまいました。

 張騫が決して降ろうとしないことから、匈奴は彼の勇敢さを認め、妻を与えました。張騫には匈奴で子が生まれましたが、それでも任務を全うする意思は消えず、使者の証である、節(節を持った使いだから使節と言います)を手放しませんでした。

 10年以上が過ぎたある日、張騫は匈奴の隙をついて脱出し、西へひた走ります。数十日後、大宛(フェルガナ)へ逃げ込むと、大宛王は漢が豊かな国であることを知っていたため、張騫を歓待し、月氏への道を教えました。月氏は匈奴に追われた後、更に烏孫にも攻撃されて西方へ遁走していたのでした。


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