2019年08月01日

前漢 淮南王劉長の死2 増長した劉長、柴武の息子の柴奇を引き込んで反乱を起こそうとして失敗、蜀に流される途中で食事を取らず餓死を選ぶ

 それでも、領地で皇帝を気取っているだけなら、まだ文帝には許されたかも知れません。しかし、彼は決して超えてはいけない一線を超えてしまいます。即ち、大将軍柴武の息子の柴奇と密謀して反乱を起こさせた上、越や匈奴も誘って天下を奪おうと企んだのです。

 結局、柴奇は捕らえられて処刑され(父の柴武は連座こそしませんでしたが、家はそこで絶えることになりました)、劉長は長安に召還されます。取り調べ官は、棄市(処刑した上で晒し者にする)が相当であると奏上しましたが、文帝は処刑するに忍びず、王位剥奪の上、流刑することを命じます。

 文帝はそれだけではなく、食料や寝具どころか、寵愛する女官たちまでしっかり与えるように命じました。

 その一方、劉長の反乱に加わった者は処刑されていますので、法の下の平等など存在しない社会の恐ろしさを感じます。

 さて、劉長が蜀に送られると、袁?は文帝に、これまで文帝が甘い態度を取り続けたために劉長が驕慢となったこと、流刑中に劉長が亡くなるようなことがあれば文帝に弟殺しの汚名がつきかねないことを指摘します。文帝は「朕は彼を懲らしめてやるだけだ。改悛さえすれば呼び戻そう」と応えました。

 ぬるいです。ぬるすぎです。

 文帝にとっては可愛い弟だったかも知れませんが、怪力で知られる劉長は、護送の兵士たちからすれば恐怖の存在でした。誰も護送車の檻を開けて劉長を外に出そうとはしません。

 劉長は、「以前は勇者と言われたものだが、もうそんな気力はなくなった。俺は驕り高ぶり、過ちに気づかなかった。この世に生を受けながら、憂い悩み続けて生きるなどできぬ」と言うと、食事を拒否し、餓死しました。劉長の死に気づいたのは雍の長官で、その報告を受けた文帝は、「袁?の忠告を聞かなかったばかりに淮南王を死なせてしまった」と号泣しました。

 悲惨なのは護送にあたった者たちで、封を解かないまま食事を与えた役人たちは処刑の上、さらし者にされたのでした。


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2019年08月02日

前漢 冒頓単于の死 前174年に冒頓単于が死に、子の老上単于が即位 漢は宗室の女性に公主を名乗らせ匈奴へ送る

 これまで何度か繰り返してきた通り、文帝は優しい皇帝です。母親にも尽くし、自ら毒見役を買って出たことで、元の時代に24人の孝子の行跡をまとめた『二十四孝』にも選ばれている程です。

 流刑の途中で餓死を選んだ淮南王劉長を不憫に思った文帝は、前172年にまだ幼い劉長の4人の息子劉安、劉勃、劉賜、劉良を侯にし、更に前164年には既に亡くなっていた劉良以外の3人について、劉安を淮南王、劉勃を衡山王、劉賜を廬江王に封じています。

 そのような皇帝であっても、一度怒れば庶民を何人死刑にしても構わないのです。専制制度の問題点がよく現れていますね。

 同じ前174年には匈奴の冒頓単于が世を去っています。漢を散々に破った後には同じ遊牧民の月氏を攻撃してその領土を広げ、一代で大国を築いた英雄の死でした。

 子の老上単于が即位します。文帝は匈奴との親睦を保つため、宗室の女性に公主と名乗らせて単于の閼氏に送りました。この時、女性のお供に宦官の中行説を付けました。中行説はこの措置が大層不満だったようで、単于に仕えて匈奴のために働くようになります。彼は単于に重用され、文字を教えたと伝えられます。

 それどころか、漢の木簡、牘が1尺1寸なので、匈奴からは1尺2寸の牘を使うように勧めることで、自分を異国に追いやった故国へ意趣返しをする程でした。封泥に捺す印も大きくし、単于の称号の前に「天地所生、日月所置」という文句を置いて、漢より上の立場に見せようともしました。

 漢はさぞ面白くない思いをしたのでしょうが、力関係から耐えざるを得ませんでした。

 同じく前174年、文帝は長沙王の太傅に左遷されていた賈誼という人物を中央に呼び戻しています。

 賈誼は洛陽に生まれ、18歳で詩経、書経に明るかったため、地元では才子として有名でした。河南の郡守だった呉公が廷尉となるために中央にやってきた際、賈誼を推薦したことから20歳余りで博士になったほどの才子です。



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2019年08月03日

前漢 賈誼1 20歳あまりで博士となった賈誼、匈奴政策を始め、多くの献策を行う その中で見える、商人階級の台頭と農民の苦しみ

 文帝もまた賈誼を高く評価し、大中大夫に昇進させています。しかし、余りに急進的な改革案が太尉の周勃らに嫌われ、長沙王の太傅に流されてしまっていました。長沙への赴任に際しては屈原を弔う詩を詠んでおり、これは文選にも収録されています。

 文帝はこの賈誼を呼び戻し、鬼神について討論して心に適う答えを返したことから重用することとし、末子の梁王劉勝の太傅(教育係)としました。

 賈誼はしばしば文帝に匈奴政策、民生政策、諸侯の統制などを献策するようになります。

 大きな戦争が無かったことから、この頃には農業生産は回復しつつありました。となると、物資の流通に関わる人々、つまりは商人もまた富を蓄えつつありました。

 農業は、農民の個人的な頑張りで収穫量を激増させることは困難です。しかし、商人はもっと容易に収入を増やすことができるでしょう。もちろん、失敗した場合のリスクはあるわけですが。

 商人が栄えるのは大変に結構なことです。もしも、彼らが収奪をしていないのなら。

 実際には、商人たちは農民の租税が銭で納めることになっていることから、農作物を安く買い叩いて、不作のところに高く売るというようなことをやっていました。これでは貧富の差が社会不安を生みかねないと警戒されても仕方がないでしょう。

 賈誼はこうした状況を憂う1人でした。「縁取りと刺繍で彩った絹の衣装は、昔は帝くらいしか着られなかったのを、庶民が飾っている」と非難しているのは、何も社会が豊かになっていることを非難してのことではありません。農民が苦しい中、一部の承認のみが肥え太っていることへの批判です。

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2019年08月04日

前漢 賈誼2 太傅だった賈誼、梁王劉勝が事故死したことにショックを受け、33歳で死ぬ 賈誼の路線は鼂錯が引き継ぐ

 商人も利益を追求するのは当然のことですが、どうやって彼らの利益と搾取をバランスさせるかは、古代だけではなく、現在も課題であると言えるでしょう。

 とりあえず、ここでは賈誼が農民を保護することを説き、文帝はこれに従い勧農政策を採用したことだけ押さえておきましょう。

 若く、知力に優れ、しかも弱者にも暖かい目を注いた賈誼でしたが、前168年に33歳という若さで世を去ります。その前年の前169年、賈誼が太傅として面倒を見てきた梁王劉勝が落馬して命を落としてしまいます。それを悔やんだ賈誼は憂いの中で病み、後を追うようにして亡くなってしまったのです。

 彼の著した『過秦論』は史記にも引用されることで、現在にも漢の人々が秦をどのように考えていたかを伝えてくれています。それほどの才能が、こんなにも早く喪われてしまったことは嘆かわしいばかりです。

 文帝は最も可愛がっていた子に先立たれるという不幸を経験したわけですが、変わらず温情に溢れた統治を続けます。

 その文帝を実務で支えたのが賈誼であり、賈誼存命中から文帝の信任を得て、賈誼と同じように農民を保護しようと動いた鼂錯(ちょうそ)です。

 鼂錯は刑名学(=法家)を学んでから出仕したのですが、文帝の命令で書経を学んだ、という変わった経歴の持ち主です。期待されているからこそ書経の勉強に派遣され、その後は文帝に信任されて政策を立案するようになっていきます。

 文帝は鼂錯をかなり高く買っていたようで、太子の劉啓の太傅(教育係)にもしています。ということは、劉啓が順当に即位するのなら、?錯には最高位まで上り詰める道が見えてきた、ということです。それが彼にとって幸せなことだったのか、後に見ることになるでしょう。

 さて、鼂錯もまた、貨幣での納税が義務付けられていることを批判しました。

 当時の徴税は不定期に行われましたが、命じられれば即納するしかありません。しかも、現金での納付ですから、作物を商人に売るしかありません。


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2019年08月05日

前漢 鼂錯 商人が農民から作物を買い叩かないようにするため、穀物を納入すれば爵位を与えることにする 政策は大成功で田租は免除された

 商人側は、農民が一斉に同一作物を売りに来るわけですから、いくらでも買い叩くことができます。それを嫌っても、現金を手にする手段は他には高利貸から借りるくらいしか残っていません。一方で商人は原価に倍する値段で物を売り、巨額の富を蓄えることが可能です。

 また、高利貸に金を返せなくなった農民は土地を失い、流浪するしかありません。彼らは富農の下で小作人として働くか、あるいは秦末の彭越のように、山賊にでもなるしかなくなります。いずれも社会を不安定化させるものです。

 鼂錯は農民が貧しいのに商人ばかりが豊かになっていることを批判しました。

 彼が優れているのは、この問題に対してきちんと解決策を準備したことです。その案こそ、商人が穀物を納入すれば、その量に従い爵位を与えるという政策です。

 辺境に600石の納付すれば第2級の爵位である上造に任じられるようにし、4000石では第9級の五大夫、12,000石で第18級の大庶長にまで爵位を上げることがかのうでした。辺境に納入させたのは、辺境で働く人々への給与とするためで、輸送費も商人持ちにしたわけですね。

 爵位はどこにも実体のないものですから、幾らでも与えることができます。一方で、当時差別されていた商人は、穀物を納めさえすれば然るべき立場と名誉が与えられます。彼らはこぞって穀物を納めるようになりました。

 それに伴い、郡や県への納入でも同様の特典を与えるようになりました。

 この政策は商人から農民への金の動きを作りだすことにもなりますので、農民の納税も非常に楽になります。

 商人からの穀物の納付は相当な量にのぼったようで、賈誼の死と同じ前168年には、田租の半分を免除しています。これにはしばらく豊作が続いていたこともあったようです。

 更に翌年には田租の全てを減免し、この減免措置は12年間も続きました。


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