2019年07月01日

前漢 劉如意の殺害2 劉如意の召喚に反対した周昌は職を奪われる 恵帝は自ら劉如意を出迎え、三度の食事も共にして守ろうとしたのだが……

 周昌は筋を通す人物で、このブログでも臣下の前で戚夫人と戯れる劉邦に「桀や紂のような主君だ」と言ったり、劉如意を後継者にしようとする劉邦をどもりながら諌めたりしたことを紹介しましたね。そして、だからこそ劉邦が劉如意を託したことも。

 彼は「先帝から密かに趙王を頼まれています。趙王は年が幼く、呂太后は趙王を召して殺そうとしているとのこと。私はどうしても、趙王を遣る訳にはいきません。更に、王はご病気で詔を奉ずることはできかねます」と、呂后の命令を拒否させました。使者は三度往復しましたが、それでも周昌は命令を肯んじませんでした。

 呂后は怒り、まず周昌を召喚してしまいます。諸侯国の相国は中央が任免権を持っていましたね。周昌も中央からの正式な命令を拒否することはできませんでした。

 周昌が趙を出ると、呂后は趙王を召します。已む無く趙王は長安に向かいました。長安に着いたら何が待っているか、火を見るより明らかです。

 これを案じたのが、心優しい恵帝です。彼は自ら途中まで異母弟を迎えに出ると、一緒に宮殿に入ります。そして、母が手を出せないよう、共に過ごし、同じものを食べました。

 さすがに、これでは呂后も手を出せません。しかし、間もなくそのチャンスが巡ってきます。

 12月のある日、恵帝は早朝に狩りに出かけます。まだ幼い劉如意は早起きができず、恵帝は幼い異母弟を起こすに忍びなく置いて狩りにでかけました。そして恵帝が帰ってきた時には、如意は既に帰らぬ人となっていました。

 恵帝の側仕えの宦官が呂后にこのチャンスを告げたのでしょうね。

 一人息子を奪われた戚夫人の脅威は無くなったはずです。ところが、呂后の怒りは凄まじく、彼女の四肢を切断し、耳目を潰して厠に放置して人彘(=ブタ)と呼んだというのだから酷い話です。

 邪魔者を排除して意気軒昂の呂后は、変わり果てた姿になった戚夫人を息子の恵帝に見せびらかします。


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2019年07月02日

前漢 劉肥暗殺未遂事件 劉邦の長男の斉王劉肥が長安へ来た際、恵帝は兄を立てて上座に座らせたが、呂后は激怒して毒殺を図る

 恵帝は激しいショックを受け、「これは人のすることではございません。臣(子として例を尽くすため、こう称します)は太后の子として、これでは天下を治めていくことはできません」と泣き悲しみました。

 まぶたに浮かぶ戚夫人の憐れな姿を忘れるためか、恵帝は連日深く酒を飲むようになり、体を壊して1年余りも寝込むことになります。呂后は我が子の性格も理解していなかったのでしょう。

 恵帝の病が癒えた前193年、斉王劉肥が来朝します。恵帝は兄をたて、上座に座らせました。

 これを不快に思った呂后は、盃に毒酒を仕込み、劉肥に飲ませようとします。しかし、それを悟った恵帝は、自らその毒杯を飲もうとしたので、呂后は慌てて盃をひっくり返したことで、暗殺は未遂に終わります。

 史記は顛末をこう記しますが、劉肥は劉邦の庶子の中では最年長で、英布討伐にあっては曹参を副将に12万の兵を率いて参戦しています。劉如意の亡き今、恵帝の最大のライバルだったわけです。呂后は彼を警戒していたこともまた、事件の背後にあったのでしょう。

 劉肥は国に逃げ帰ると、城陽郡を魯元公主の化粧領(統治権は持ちませんが、その土地の税収を好きなように使える土地のこと)として捧げました。劉肥はその母が有力な一族出身でもなければ劉邦の寵愛を一身に集めていたわけでもありませんので、皇帝を脅かすほどの力は持っていなかったはずなのです。それでも警戒されていたのですね。

 同年、蕭何が亡くなります。史記は韓信の死を「死」と表現し、蕭何には「薨」を用いています。司馬遷の生きた武帝時代にはこうした評価の差が生じていたのでしょう。司馬遷は、蕭相国世家の結びにおいて、蕭何は沛の小役人時代は凡庸で特に優れたことはなかったのに、漢が興ると時世に順応して世の中を一新する大業を成し遂げたと讃えています。

 漢が建国された際、その功績の第一等が蕭何とされた後、位階の第一位については武官の間から曹参を推す声があったことを紹介しましたね。これは、両者の間に少なくとも間接的には闘いがあったことを意味します。


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2019年07月03日

前漢 相国曹参1 蕭何は死を前に自分の後任者を尋ねられ、曹参を推す 曹参は斉の相だったが、後任に市場と裁判を見るように言い、中央へ

 両者はもともと沛では同僚で、親しい間柄でしたが、思わぬ出世が仲を裂いていたのです。

 ところが、蕭何はきちんと曹参の才能を高く評価していました。

 病に倒れた蕭何を恵帝が見舞い、次の相国は誰が良いかと尋ねると、蕭何は「主以上に臣下を知る者はいないとの由でございます」と答えるのを辞退しました。重ねて「曹参はどうか」と問うと、蕭何は「陛下は適切な相国を得られました。臣はいつ死んでも悔い」と答え、賛同しています。

 蕭何が死ぬと、斉の相国だった曹参はまだ自分が相国の後継者に決まったと聞いたわけでもないのに、長安に向けて出発する用意をさせます。そこへ、漢の相国に任命されたことを伝える使者がやってきました。2人は不仲でも、互いに信用していたのですね。

 出立にあたり、曹参は後任の斉の相国に、「市場と裁判をよく見るように」と言い残します。後任者は訳が分からず、「それが政治で最も大切なことでしょうか?」と意図を尋ねます。曹参は「最重要というわけではない。しかし、市場と裁判とは正しいものと悪いものが共に集まるところだ。もしここを乱してしまえば、悪人たちはどこに身を置けば良いだろうか?」と、市場と裁判が重要な理由を答えました。確かに、追い詰められれば更に悪いことをするのがオチですからね。

 曹参は相国になると、基本的に寛大な者を重んじ、法律を厳格に適用する酷吏は退けました。そして、連日のように飲んだくれ、政治の相談をしようとする者も飲ませてしまい、話をさせませんでした。たまに政務を執る場合には、部下の些細なミスは極力覆い隠していたため、処罰される部下はあまりありませんでした。

 恵帝は自分も戚夫人の一見があってからは酒に溺れがちだったのですが、流石に曹参の態度には納得ができませんでした。しかし、元勲である曹参に、皇帝とはいえ心優しく、政治も戦争も矢面に立ったことのない若造が物申せるはずもありません。


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2019年07月04日

前漢 相国曹参2 老荘思想の曹参、飲んでばかりで仕事をしないため、恵帝は自分が軽んじられていると考えて真意を尋ねる

 そこで、曹参の息子の曹窋(ちゅつ)が中大夫となって出仕すると、「そなたが家に帰ったら、それとなく相国に『高帝が崩御され、新たに立った皇帝は年少です。それなのに、父上は相国になりながら、毎日のように酒を飲んで政治を奏上されませんが、それでは天下を憂いることができましょうか』と問うてみよ。ただし、朕の命令だと言ってはならぬ」と、息子から諌めさせようとしました。

 曹窋が帰宅して命じられたとおりにすると、曹参は激怒して200回ほどもムチで叩きのめし、「早く宮中に入って仕事をしろ!お前では天下を語るに足らぬ!」と言いました。

 恵帝は流石に、「なぜ曹窋を鞭打ったのだろうか。あれは、朕がそなたを諌めさせたのだが」と曹参をたしなめました。

曹参「陛下は、ご自身と先帝と、どちらが優れていると思われますか?」
恵帝「先帝とは比べるべくもない」
曹参「では、陛下は臣と蕭何ではどちらが賢いと思われるでしょうか?」
恵帝「お前のほうが及ばぬ」

 これは恵帝の意趣返しと見るべきでしょうか。

 曹参は、「おっしゃる通りでございます。思いまするに、先帝と蕭何が法を定めたことで、法令は具わっております。陛下はただ安座され、臣たちも職を守って、法令に従って失敗を防げば、それで十分ではないでしょうか」と答えました。

 興味深いのは、ここに見える明らかに老荘的な在り方です。安易には何も変えない方が社会はうまく回る、というのは、少なくとも現代の為政者なら失格なように思います。

 恵帝は曹参の答えに満足した、とのことです。

 この頃から長安に城壁が作られます。古代中国の都市は基本的に城壁で囲まれているものですが、長安の場合はまず宮殿やその周辺設備の建築を優先したため、城壁はまだ作られていなかったのです。

 雨の少ない春を選び、近隣から14万人を徴発し、版築により城壁が作られました。工事は年に1ヶ月のペースで、当然1ヶ月で完成するはずはありませんので以後毎年工事が続けられ、6年で完成しています。ただ、既にある施設を囲むように作られたので、長安城は長方形にはなっていません。


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2019年07月05日

前漢 恵帝の死 曹参が死に、劉邦の遺詔通り王陵と陳平が丞相になる 母の残虐性を見て厭世的になった恵帝、身を持ち崩して23歳で世を去る

 ちなみに、唐の長安城はその更に南に、より規模の大きいものとして造られています。現在の西安は唐代の長安あたりです。

 さて、曹参は相国の地位にあること足掛け4年で没します。劉邦の遺命どおり、右丞相に王陵が、その補佐として左丞相に陳平が就任しました。

 王陵と陳平が「相国」ではなく「丞相」なのは、漢建国に当たって極めて功績の大きかった蕭何、曹参と同じ役職なのは恐れ多い、という意識が働いたようです。いやいや、陳平はしっかり働いたでしょう、と思うのですけど。

 王陵については楚漢戦争のところでも記しましたね。元々は劉邦の兄貴分でもあった人物で、学はありませんでしたが、直言を憚りませんでした。楚漢戦争の初期には独立した勢力を築き、劉邦が関中を出てから劉邦に合流した人物です。

 それでも、一度劉邦の傘下に入ってからは忠実に仕えました。項羽は自分の勢力内にいた王陵の母親に使者を送り、劉邦を棄てて自分に付くように説得させようとしたことがあります。しかし、王陵の母は、「劉邦は長者と聞いています。私のために二心を抱いてはなりません。私は死んで使者を送ります」と息子へ伝言を送らせ、自害しました。

 項羽は怒ってその遺体を煮た、と伝えられます。まさに、彼が天下を失った理由が分かりますね。

 王陵は旗幟を鮮明にするまでは劉邦に仕える気など無かったので、劉邦が恨みを抱く雍歯とも親しくしていました。そのため出世は遅れていたのです。朴訥さ、実直さが評価されての宰相抜擢でした。

 陳平と王陵が丞相になってしばらく経った前188年、彼らの若き主君である恵帝が僅か23歳で亡くなります。

 戚夫人の痛ましい姿を見てしまってから、彼は政治を顧みること無く、酒に溺れました。そうでもしなければ、目の当たりにした残虐さを忘れられなかったのでしょうか。だとしたら、優しい善人ではあっても、大帝国のトップには向いていなかったように思います。


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