2019年06月01日

前漢 冒頓単于1 秦の将軍蒙恬の攻撃によりオルドスより北に追い払われた匈奴に、冒頓単于という強力な王が現れる 父に殺されかけた幼年時代

 彼らの生活は基本的に過酷で、軍事力が重視されていたからこそ、力を持つ健康な若者が尊重されたのです。女性関係については中国とは大きな違いがありますね。これもまた、匈奴を非文明国と見下す背景になっていたのかもしれません。同じ匈奴列伝において、戦国の七雄を「衣冠束帯の礼儀を守る中国の国家は七つ」と表現していることからそうした司馬遷の考えが透けて見えます。

 匈奴について延べるのはここで止めておき、蒙恬の遠征に話を戻しましょう。

 蒙恬の攻撃で匈奴の勢力は後退します。もともと、彼らは遊牧民で、普段は家畜の餌を確保するため小集団に分かれています。なので、強力な指導者が現れると一気に集合する一方、指導者が無能だったり弱体化するとすぐに指導者を見捨ててしまいます。離合集散が激しいのです。

 匈奴は秦に圧迫されただけではなく、西方の月氏、東方の東胡(いずれも遊牧民族の名前です)からも攻撃され、急速に弱体化していきました。

 時の匈奴の領袖である頭曼単于(単于は匈奴の王を表す言葉です)の太子として生まれた冒頓の幼少期は、匈奴にとっては苦しい時代でした。そして、彼は太子ではありましたが、自分の立場もまた苦しいものでした。

 頭曼単于の閼氏(単于が王だとすれば、王妃に当たる称号です)に男児が生まれたのです。寵愛する女性の生んだ幼い子を後継者にしようとするのは様々な地域で見られることで、そして様々な国で争いを生んできました。頭曼単于は、冒頓を亡き者にすることで問題解決を図りました。

 即ち、冒頓を月氏に人質として送った後で、月氏を攻撃したのです。頭曼単于の狙い通りに行っていたのなら、冒頓は月氏の手で殺害されていたことでしょう。ところが、冒頓は月氏のウマを盗み出して逃げ帰ったのです。

 頭曼単于は冒頓の行動力に感心し、1万の部下を授けました。しかし、これは失敗だったと言わざるを得ません。なにしろ、冒頓からすれば、いつ自分は父親に殺されるか分かったものではないのですから、「殺るか殺られるか」という状況だったのです。


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2019年06月02日

前漢 冒頓単于2 自分の放った鏑矢に続いて射ない部下を処刑した冒頓の最後のターゲットは父の単于 単于即位当時の苦労

 冒頓は鏑矢(矢の先端に鏑を付けることで射ると音がなるようにした矢)を作らせると、部下に「鏑矢が射掛けられた目標を射て。射てない者は斬る」と命じました。そして約束通り、行軍中に鳥や獣を見つけると鏑矢で射掛け、射ない者がいれば斬り捨てました。

 部下が概ね従うようになった頃、冒頓は自分の愛馬を鏑矢で射ます。今回も、躊躇った者は斬られました。暫くして、冒頓は今度は自分の寵愛する女性を鏑矢で射ます。流石に、これには躊躇う者が続出しました。そして、躊躇った者は全て斬られました。

 これで、冒頓の傍には鏑矢が飛べば、すぐにいかなる目標にも矢を射掛ける者ばかりになったわけです。最後に冒頓単于が鏑矢で狙ったのは、実の父の頭曼単于でした。部下たちは皆、頭曼単于へ矢を放ち、自分たちの単于を殺害したのです。

父を殺した冒頓は、続いて継母や腹違いの弟、頭曼単于の側近たちを皆殺しにし、自ら単于となりました。秦の2世皇帝胡亥が即位した翌年の前209年のことです。

 当時、秦に攻撃されて苦境にあった匈奴よりも勢力を伸ばしていた東胡は、匈奴の内紛を聞くと、頭曼単于が持っていた一日に千里も駆けるという名馬が欲しいと冒頓単于に申し入れます。

 冒頓単于が側近に図ると、側近たちは「千里のウマは匈奴の宝ですから、与えるわけには参りません」と反対しました。しかし、冒頓単于は「一匹のウマを惜しむのか」と取り合わず、ウマを与えました。それなら聞かなければよいのにと思うかもしれませんが、この機会に部下を試していたのでしょう。

 東胡は冒頓単于が呆気なく名馬を与えたことからこれを見くびり、続いて冒頓単于の側室の1人をもらいたいと言ってきます。側近たちは色めき立ち、「閼氏(王后)を欲しいとは無法にも程があります。攻撃しましょう」と言いますが、冒頓単于は「女1人を惜しんでどうしようというのか」と言って、寵愛していた閼氏を与えました。


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2019年06月03日

前漢 冒頓単于3 冒頓単于は自分を侮った東胡王を急襲して滅ぼし、西方では月氏を駆逐して広大な土地を手中に収める

 下手に出ればつけあがるのが世の常です。東胡の王は冒頓単于を完全に見下し、匈奴と東胡の間にある無人の地帯へ侵入し、領有しようと思うと匈奴に言ってきました。

 冒頓単于が今回も臣下に図ると、臣下たちは「あそこは捨て地ですから与えてもよろしいでしょう」と答えました。冒頓単于は大いに怒り、「土地は国家の基本である。与えるわけにはいかぬ!」と言うと、土地を与えても良いといった側近を斬り、国中の兵士を集めて東胡を急襲しました。

 これまでの従属的な態度にすっかり油断していた東胡は備えもないまま匈奴の攻撃を受けることになったのです。東胡王は殺され、冒頓単于は大量の捕虜と鹵獲した家畜を連れて帰国しました。

 更に、今度は西方で月氏を攻撃して楼煩族や白羊族を併合、燕や代にも侵入して秦に奪われた土地を奪い返しました。この頃の中国は秦末漢初の混乱にあったので、匈奴の統制の取れた攻撃の前には為す術もなかったのですね。

 この端倪すべからぬ冒頓単于の下で匈奴は大きく勢力を伸ばし、漢初には30万にも及ぶ軍を持ったと伝えられます。30万の騎兵を数千〜1万からなる24の集団に分け、有能な部下に指揮させ万騎と称しました。

 上記が史記に見える匈奴強大化の歴史です。確かに、内的な理由としては、強力な指導者が生まれたために特定の集団が強力な力を持つようになった、というのもあるでしょう。一方で、中国に強力な王朝がうまれたから、匈奴が強大化したという面もあります。

 冒頓単于が生まれたのは、秦が蒙恬に匈奴を攻撃させ、匈奴が塞外に追い払われて弱体化した時期でしたね。これは、匈奴側には仲間同士で連携して中国に対抗するような動きを生じさせることになります。

 匈奴は遊牧民で、「耕作に従事することもなかった」と史記は記しますが、漢人を捕虜にしていたわけですから、細々とは農業も営んでいたのでしょうが、収穫は微々たるものです。畢竟、領内に農民はほとんどいません。ですから、必需品の少なからずを農耕民との貿易で得ています。


史記列伝 4 (岩波文庫 青 214-4)
史記列伝 4 (岩波文庫 青 214-4)


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2019年06月04日

前漢 塞翁が馬 匈奴の度重なる侵入が、人生はどう転ぶか分からないという「塞翁が馬」の諺を生んだ

 『シルクロード全史』には以下の記述があります。

 ステップ・ルートは、ユーラシア大陸東西貿易の重要な通路で、東方の絹織物などがこのルートを通じて大量に西方に販売され、オアシス・ルートの開通以前はことに隆盛を極めたが、北方の遊牧民族は、たびたび南下して西方貿易の商品を大量に略奪した。また、平和的な方法で絹織物を入手する手段もあった。(略)最も多く見られる例は、遊牧地区と農業地区の住民の間で盛んに行われていた絹馬貿易による絹の取得であった。毎年、これらの方法で大量の絹織物などが草原地区に入り、ごく一部が統治者の用に供せられ、大部分が貿易商品として西方地区に送られた。


 上掲書はシルクロードについてのものなので絹に集中していますが、農作物についても話は同じことです。

 取引が不利になったり、北方で食料が足りなくなって困窮すると、南下して農業地域に入ってくるわけです。農民には大変迷惑な話でしょう。だからこそ、農業国家は強力な国家を欲し、国家が強大化すると、食い詰めた遊牧民族は対抗する必要ができるのです。

 皮肉なことに、匈奴が強大化したのと秦が滅亡したのは同じ時期でした。相手が弱体化したからと言って、それに付き合ってこちらまで弱体化するような勢力など存在しません。畢竟、匈奴は何度も北方を侵すようになりました。

 塞翁が馬のことわざをご存じの方も多いでしょう。「塞」とは要塞のことで、「塞翁」とは要塞の近くに住む老人、の意味です。

 主人公となる偏屈な老人が、ウマが逃げて悔みを言われた時に「これが悪いかは分からん」と平然としていました。暫くして、ウマがメスのウマを連れて帰ってきたので、今度は祝われると、「これが良いかは分からん」と言います。暫くして老人の子がウマから落馬して骨を折ります。また周りが悔みを言うと、老人は今度も「これが悪いかは分からん」と返します。やがて異民族との戦いがあり、健康な者の多くが戦場で散っていきました。こうしたことから、何が幸運で何が不運かは分からない、という故事ですね。


シルクロード全史
シルクロード全史


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2019年06月05日

前漢 韓王信の造反 対匈奴最前線に領地を与えられた韓王信だったが居城を匈奴の大軍に包囲されて降伏、劉邦は匈奴へ親征する

 この広く人口に膾炙した諺は、前漢に成立した『淮南子』に見えるものです。ということは、これは匈奴との国境線近くの話であると考えて間違いはないでしょう。

 話が長くなりました。この匈奴に、漢は対応する必要に迫られていたのです。

 韓王信は匈奴に備えるため、匈奴との境界線に近い太原に住むよう命じられます。韓王信は「韓王」とありますが、戦国時代の韓の領域を与えられたわけではありません。太原に国替えし、晋陽に住ませたとされますので、戦国時代だと趙の地域ですね。李牧の活躍に見られる通り、匈奴の侵入が多い地域です。

 予想通り、匈奴は頻繁に韓に侵入しました。

 韓王信は匈奴に対抗するため、前線に近い馬邑に移りたいと願い出て許されます。ところが、前201年秋に匈奴は大挙して押し寄せると、韓王信を馬邑に包囲してしまったのです。

 漢は救援の兵を出していたのですが、包囲はあまりにも固く、韓王信は戦い続けるのは困難と思い和平を選ぼうとします。和平交渉の使者が行き来するのを見た漢軍では韓王信を疑う声が巻き起こり、使者を送って韓王信を問責しました。韓王信は処刑を恐れて匈奴へ逃亡しました。

 匈奴は、地理に明るい韓王信に、中国北方での略奪を行わせました。

 これを捨て置くわけにはいきません。同年冬、劉邦は遠征して韓王信を攻撃し、その部将の王喜を斬ります。韓王信の部将たちは戦国時代の趙王の子孫趙利を擁立して対抗しました。また、韓王信の敗残兵に匈奴の騎兵一万余りを加えた軍が晋陽に侵入しますが、こちらは敗北に終わりました。

 反撃可能かを見定めるため晋陽に留まる劉邦の下へ、冒頓単于の様子を探らせていたスパイから「匈奴の兵は弱兵ばかりなので攻撃すべき」との報告が届きます。

匈奴は弱兵を前線に置き、油断させて漢軍の攻撃を誘っていたのです。


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