2019年05月01日

楚漢戦争 広武山の対峙1 項羽は劉邦の父・太公を俎の上に載せ、スープにして食うぞと脅すが劉邦は取り合わず、対峙は続く

 項羽は向かうところ敵無しで、戦っては敵を破り、城を囲んではこれを落とす、といった具合でした。しかし、劉邦は本拠地である漢中は当然のこととして、関中にすら楚軍の侵入を許さず、一度は彭城を落としているように、漢が攻勢に出て、楚が守っていました。

 だからこそ、項羽は有能な味方を得なければならなかったはずですが、英布は義帝殺害のような汚れ仕事をおしつけられて離反、范増を離間策で失うと、項羽は頼るべき人材を失っていったのです。この時点において、項羽は既にジリ貧になっていた、と言えるでしょう。

 この頃、項梁が楚軍の補給線を脅かし、楚軍は困窮します。そのため、項羽は劉邦の家族を人質に、劉邦を呼び出し、2人の対話が実現します。

 劉邦がやってくると、項羽は劉邦の父の大公を神に肉を捧げる際に用いる高俎(こうそ)に置き、「すぐに降伏しなければ、大公を煮るぞ」と脅します。しかし、劉邦は「お前と俺は懐王の臣下となり、義兄弟の契を結んだ仲ではないか。ということは、俺の親父はお前の親父だ。お前の親父をスープして食うというのなら、俺も一杯分けてもらおう」と拒否しました。

 項羽は怒って大公を殺そうとしますが、項伯は「天下のことはどうなるかわからない。それに、天下を取ろうという者は家族のことなど考えるものではない。殺しても無益で、ただ禍を招くだけだ」と反対しました。項羽も伯父は無視できず、大公を殺すことは取りやめとなりました。

 会談が物別れに終わった後も、劉邦は陣地に籠もって決戦を避けます。業を煮やした項羽は劉邦に使者を送り、「天下が苦しんでいるのは我々両名が居るからである。いたずらに天下の民を苦しめないよう、漢王と2人で雌雄を決したい」と、甚だ自分に都合の良い解決方法を提案します。当然、劉邦は「私は知恵を戦わせようと思う」とにべもなく拒絶しました。


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2019年05月02日

楚漢戦争 広武山の対峙2 再び両雄は谷を挟んで会談し、劉邦は項羽の罪を数え上げて対決姿勢を鮮明にする

 そこで楚軍は漢軍を攻撃しますが、趙の西北に住む楼煩人の兵士が楚の兵士を次々に射殺してしまいます。項羽が睨みつけると、楼煩人は恐れて城壁の中に戻りました。ただ、今回の攻防は、楚軍が攻撃しようとしたが楼煩人らの弓矢攻撃で攻撃を中断せざるを得ず、漢が楚の意図を挫いて終わったと総括できそうです。

 小競り合いの後、再び項羽と劉邦が谷を挟んで話し合います。

 劉邦は項羽に対し、「懐王は先に関中を定めた者をその地の王にすると約束したが、お前は約束を破って私を蜀漢の王にした。これが罪の第1。お前は卿子冠軍(宋義)を王命と偽って殺して自ら大将軍となった。これが罪の第2。お前は鉅鹿の戦いで趙を救った後は返って懐王に報告すべきだったのに、勝手に諸侯の軍を動かして函谷関に入った。これが罪の第3。懐王は暴虐を禁じたが、お前は秦に入ると宮殿を焼き始皇帝の墓を毀して財宝を自分のものにした。これが罪の第4。また、降伏した秦の王、子嬰を殺した。これが罪の第5。秦の降伏した兵士20万を騙して穴埋めにした。これが罪の第6。お前は自分の部下を肥沃な土地の王として元の王を移動させ、臣下に反乱を起こさせた。これが罪の第7。お前は義帝を追い出し、韓王の土地を奪い、梁と楚も併せて広大な地を自分のものにした。これが罪の第8。お前は江南で義帝を殺させた。これが罪の第9。臣下でありながらその君を弑し、降伏した者を殺し、政治は不公平、誓いを破って信義を守らないことは大逆無道である。これが罪の第10。私は義兵を率いて諸侯と共にお前を撃っているのであって、何を好き好んで自ら対決しようか」と言ってその罪を非難しました。

 2回も谷を挟んでの会談が起こるとは信じがたいのですが、項羽本紀に従うとそうなるのです。一方、高祖本紀では先の劉邦の父親を羹にするという脅しの話は出てきません。恐らく、高祖本紀が正しく、一度の会談で項羽の脅しと劉邦の非難が起こったのではないかと思います。


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2019年05月03日

楚漢戦争 龍且の死1 項羽と劉邦の対談は劉邦を襲った1本の矢で終わりを告げる 斉平定に向かった龍且、持久戦を拒否して韓信と決戦を選ぶ

 会談は、一本の矢が楚軍から放たれ、劉邦の胸に命中したことで終わりを告げました。

 項羽が隠れていた射手に劉邦を狙撃させたのです。劉邦は、矢が足の指に当たったと嘯いて自陣に戻りました。

 矢傷は重かったようで、劉邦は床に伏します。そのままでは、劉邦の体調に関する噂話が広まり、漢軍の士気が下がることは明らかです。そこで、張良は無理を押して軍中を巡るように求めます。劉邦は張良に従ったのですが、やはり怪我は重く、山の中に陣取り続けることが困難になり、広武山を樊?に任せて成皋に戻りました。

 劉邦の危機を救ったのは、韓信です。

 先に記した通り、韓信は臨淄を落としていましたが、斉王の田広や、実質的な権力者の田横たちは城を脱して地方都市に拠っていましたから、まだ油断はできない状態でした。そして、項羽は助けを求める田広に対し、龍且を将軍にした援軍を送っていました。

 戦いに逸る龍且に、「漢軍は国から遠く離れ力の限り戦う一方、我が軍は故郷の楚に近く、兵士は故郷に逃げ散りやすい不利な状況にあります。守りを固め、斉王に残兵集めさせるに限ります。各地の城は漢に叛くでしょう。そうすれば、漢軍は食料を手に入れることもできなくなり、戦うまでもなく降伏するでしょう」と進言した者があります。

 これは、アレクサンドロス3世がペルシア遠征に向かった際、焦土作戦を唱えたメムノンに近い感じですね。ナポレオンのロシア侵攻を焦土作戦で破った事例を見れば、この進言は正しかったように思います。

 持久戦は、正しい判断と長期間耐え忍ぶタフさが必要ですが、短期決戦での勝利と比べると、華が無いのは間違いありません。龍且は「俺は韓信を知っている。あしらいやすい奴だ。それに、斉を助けに来て、戦いもしないで降伏させたら、俺の手柄はどうなる?」と献策を拒否します。

 両軍は川を挟んで対峙します。


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2019年05月04日

楚漢戦争 龍且の死2 韓信を侮った龍且、川を渡って韓信を攻撃しようとして水攻めで敗北して斬られ、斉王田広もまた命を落とす

 攻撃を仕掛けたのは韓信でした。しかし、川を半分ほど渡ったところで撤退に移ります。弓兵からの攻撃による犠牲が耐えられなかったと見たか、龍且は「韓信が臆病なのは知っていたわい」と言うと、猛然と追撃に移ります。そして、先頭にたって川を渡り、韓信を攻撃しました。

 その直後、轟音と悲鳴で龍且は異常を知ったことでしょう。振り返った龍且の眼の前で、川は濁流と化して楚軍の兵士を次々と飲み込んでいきます。韓信は、前日のうちに1万ほども土嚢を作らせて上流で川を堰き止めさせており、ここぞとばかりに土嚢を切り開かせたのでした。

 龍且の軍は、その殆どが川を渡りきることができませんでした。

 すっかり少数となり、おまけに後方を濁流で塞がれた田広と龍且の軍に対し、韓信は騎兵隊を率いる灌嬰や曹参と共に攻撃を仕掛けます。こうなっては、どれほど楚軍が勇猛でも、敗北は時間の問題だったでしょう。龍且は戦死し、周蘭は捕虜になる、という惨敗を喫します。

 灌嬰はこれより先、滎陽で騎兵隊長に任命されています。元々は別の者を任命するはずだったのですが、秦出身のその人物は兵士がついてこないこと恐れ、劉邦に近い者を求たのです。灌嬰は激戦を何度もくぐり抜けたことが評価され、抜擢されていたのでした。

 滎陽での戦いの際、灌嬰は別働隊を率いて項羽の後方攪乱にあたっています。滎陽失陥後に劉邦と合流、劉邦の身代わりになって命を落とした周苛に代わり、御史大夫となっていました。

 御史大夫とは、官僚の監察を行うものなので、いわば事務方のトップといった位置づけです。周苛にしても灌嬰にしても、最前線で戦っていますね。戦乱の世だったので、本来なら文官のポストでも、高位は武官が占めていたのでしょう。

 田広は、田儋列伝によれば捕虜になったそうですが、項羽本紀や淮陰侯(韓信)列伝では斉王広が逃げたとあり、何が起こったのか良く分かりません。ただ、その後は田広の名は出てきませんし、田横は田広が死んだと聞いて自ら斉王を名乗ったとのことなので、処刑されたか戦傷が元で死んだのか、どちらかなのでしょう。


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2019年05月05日

楚漢戦争 斉制圧 韓信は田広に続いて黒幕の田横も破り、斉を制圧する 劉邦へ使者を送り、仮の王に任命して欲しいと頼む

 田横は斉王を名乗ると、軍を集めます。もともと、項羽が諸侯を封じる前から斉で力を振るっていた田横ですから、残兵を集めて指揮を取るのは造作もないことだったでしょう。しかし、田横の力も、何度も激戦をくぐり抜けてきた韓信軍相手には通用しませんでした。田横は灌嬰と戦いますが、敗れて彭越の下に逃げます。

 彭越は劉邦に与して項羽と戦うことが多いのですが、劉邦の部下になったわけではなく、独立勢力だったことがわかりますね。

 韓信は抵抗を続ける田一族の残党を掃滅し、遂に斉を掌握しました。

 斉は陳勝呉広の乱が起こった直後から韓信が征服するまで、楚の懐王にも項羽にも劉邦にも従わず、独立を保ってきました。そこで、韓信は「斉は偽りや心変わりが多く、裏切りを繰り返してきました。南方は楚と接していることから、仮の王を置いて治めなければ落ち着かない情勢です。私を仮の王に任命して頂けますよう、お願い致します」と劉邦へ使者を送ります。

 その頃、劉邦は広武山で負った傷が癒えたので、一度櫟陽に戻って父老たちと酒宴を張り、再び広武山に戻って項羽と対峙していました。敗北して捕らえられれば確実に殺される、という状況下で、部下が「俺を王にしてくれ」と言ってきたわけですから、劉邦は怒ります。

 「俺はここでずっと苦しい思いをしながら、お前の助けがいつ来てくれるものかと待っているのだ。それなのに、勝手に仮の王にしてくれだと!」劉邦が激して怒鳴りました。

 しかし、ここで韓信の望みを叶えなければどうなるでしょうか。彼には独立できるだけの兵力と支配下にある土地があり、しかもこれまで見てきた通り負け知らずの名将なのです。彼が独立してしまっては、あるいは項羽以上に厄介な敵が誕生するかも知れないのです。
 
 陳平はそっと劉邦の足を踏み、張良は「漢はいま不利な時期です。韓信が自立して王になるといっても止められません。それより、この機会に王に任命して優遇し、自ら進んで斉を守るようにさせるのが良いでしょう。そうしないと大変なことになります」と耳打ちします。



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