2019年04月01日

楚漢戦争 韓信という男2 侮蔑した男の股をくぐり笑われながら心に大志を抱く韓信 漢中で罪を犯し死刑判決を受けるが、夏侯嬰に訴え助命される

 このような生活ですから、周りの者は韓信を莫迦にしていました。ある荒くれ者が、「おい、お前はデカいなりで剣なんかぶら下げてるが、ビビってんだろ。死ぬ気があるなら俺を刺してみろ。それができないなら股をくぐれ」と喧嘩を売ります。韓信は黙って股をくぐりました。誰もが韓信を臆病者だと笑いました。

 もし、秦帝国が長く続けば、韓信は働きもせずにブラブラしているだけの人物で終わったことでしょう。しかし、歴史はそうは動きませんでした。

 陳勝呉広の乱が起こると、韓信は項梁の軍に身を投じます。そして項梁死後は項羽に従い何度か献策したのですが、取り上げられませんでした。鳴かず飛ばずでいるのが嫌になったのか、はたまた項羽が劉邦に与えた軍の中に彼もいたのか、劉邦が漢中に入る際に項羽から劉邦へ鞍替えしています。

 漢中で韓信は連敖と呼ばれる賓客を接待する下級役人に任じられます。項羽の下では目立った活躍はなく、劉邦の下についたばかりなわけですから、まあ妥当なところでしょう。

 ところが、他の役人たちと一緒に法律を犯してしまい、一味は斬罪と決まります。仲間13人が斬られ、いよいよ韓信の番になり、彼が顔をあげると夏侯嬰と目が合います。そこで韓信は「漢王は天下を取ろうとはしていないのか。なぜ男一匹の首を斬るのか」と大見得を切ってみせました。

 クジで最後に残った者が歴史を変えるというのは、ユダヤ戦争におけるヨセフス(ティトゥスによるエルサレム攻略の際に生き残り、歴史家として活躍した人物で、当ブログでも触れておりますので興味があればキリスト教の項を御覧ください)を彷彿とさせますね。

 14人もが死刑になるような犯罪とは何でしょう。殺人や反逆罪だったら何を言おうと死刑のような気がしますので、接待係という職業柄、賄賂をもらっていたのでしょうか。

 夏侯嬰は面白いと思い、韓信を赦して語り合います。そして才能があると見た夏侯嬰は劉邦に韓信を推薦しましたが、劉邦は穀物調達を担当する治粟都尉に任じただけでした。


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2019年04月02日

楚漢戦争 韓信という男3 蕭何にも高く評価された韓信だったが昇進しないため逃げ出す 蕭何が急いで後を追い、逃亡したと誤解される

 間もなくして蕭何の知遇も得ます。蕭何もまた韓信を高く評価し、何度も劉邦に韓信を重用するように説きますが、劉邦は特に待遇を上げるようなことはしませんでした。

 韓信は、劉邦の下にいても出世はおぼつかないと見ると、職を捨てて逃亡してしまいます。

 もっとも、逃げ出したのはなにも韓信1人に限りません。東方出身の兵士の少なからずが漢中に留まり続けることを嫌って逃亡していました。

 韓信の逃亡は、程なくして蕭何の知るところになります。韓信を天下の奇才と睨む蕭何は大急ぎで韓信を追います。

 蕭何は急いでいたので誰にも韓信を追っていることを告げなかったのですが、他の者から見れば蕭何が突然姿を消したわけですから、彼もまた逃亡したのだと見られました。

 沛の蜂起以前から劉邦と親しく、蜂起後も裏から支え続けた蕭何を劉邦は股肱と頼んでいましたから、逃亡したとの知らせは劉邦に大きな衝撃でした。

 それもあり、蕭何が戻ってくると、「逃亡したのは何故か」と詰問します。

蕭何「私が逃げるはずがありません。逃げた者を追ったのです」
劉邦「お前が追いかけたというのは誰だ?」
蕭何「韓信です」

 劉邦は「将で逃げた者はもう何十人にもなるというのに、お前は誰一人追いかけなかったではないか。そのような嘘をつくな」と怒りました。

 すると蕭何は、「これまでに逃げた将と同じ程度の者ならまた得ることができます。しかし、韓信は国に並ぶ者のない人物(国士無双)です。もし王がいつまでも漢中に留まって満足されるのであれば構いませんが、もし天下を争うお積もりなら、韓信は不可欠です。韓信を必要とするもしないも、王の心一つです」と反論しました。

劉邦「もとより、私も東方に進むのが希望である。漢中にずっと留まるつもりはない」
蕭何「それでしたら存分に韓信をお使いください。さすれば韓信も漢に留まりましょうが、もし王が韓信を用いないのならば、逃亡するだけでしょう」
劉邦「わかった。きみを信じて将軍にとりたてよう」
蕭何「将軍では韓信は留まりますまい」
劉邦「では大将軍に任じることとする」


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2019年04月03日

楚漢戦争 韓信という男4 韓信は劉邦に、項羽より優れていると思うかと問い、否の答えを引き出す そして、項羽の欠点を指摘する

 劉邦はすぐに韓信を呼んで大将軍に任命しようとしましたが、蕭何が礼を失していると窘めます。そこで、劉邦は高台を築くと、吉日を選んで大将軍を選ぶと宣言しました。

 なお、この時に作られた拝将台は現在も残っておりますので、漢中方面に行くことがある方は余裕があれば遥かな過去に思いを寄せられても良いかも知れません。

 さて、これまで功績を上げてきた将軍たちは誰もが自分が選ばれるものだと思っていたのですが、いざ当日になってみると、ろくに名前も聞いたことが無い韓信が大将軍だというので驚きます。

 儀式が終わると、劉邦は韓信に「さて、大将軍は私にどのような策を授けて頂けるのかな?」と問いかけます。

韓信「今、王が天下を争おうとされているのは項王ですね」
劉邦「そうだ」
韓信「勇気に満ち、仁を重んじることにおいて、王と項王とではどちらが優れておいででしょうか?」

 劉邦は暫く考えた後、「項王には及ばぬ」と答えました。韓信は、「臣もやはり大王が及ばないと存じます」と賛成します。

 上司に向かってこれだけのことが言えるとは、韓信の肝の太さは半端ないものがありますね。ただ、これは韓信が一度劉邦に腹を立てさせてから劉邦をおだてることで良い気分で話を聞き終わるようになるようコントロールしたのだと思われます。韓信の言葉の続きを見ることにしましょう。

 「項王がひとたび怒れば千人もの男たちが震えひれ伏すほどです。しかし、彼は有能な将軍を信頼し、物事を託すことはできません。これは匹夫の勇というものに過ぎません。また、項王は人と会う際には謙り、恭しく慈愛に満ちて言葉も丁寧です。病気の人があれば涙を流して食事や飲み物を与えてやります。しかし、功績を挙げた臣下へ封爵を授けるとなると、授けるべき印綬をいつまでも手に弄び、渡すのを躊躇します。これは『婦人の仁』と呼ばれる類のものです」


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2019年04月04日

楚漢戦争 韓信という男5 項羽の残虐な仕打ちこそ劉邦を有利にしている 韓王信もまた兵士の気持ちを理由に東方への進撃を進言する

 この人物評は、陳余が田栄に送った書簡に見える、「仲の良い者は豊かな地に封じたが、元からの王らは僻地に追いやられた」、という言葉と軌を一にしますね。項羽はなまじ自分が名家生まれの有能な人物だったが故に、成り上がろうとする者の野心を読みきれなかったり、自分よりも能力の低い人物を正しく評価することができなかったのかもしれません。

 「項王は天下に覇を唱え、諸侯を臣下と致しましたが、要地である関中を去り、彭城に都を置きました。そして義帝の命令に背き、自分の好悪で諸侯を王にしましたから、諸侯の多くは恨みを抱いています。義帝を江南に追ったのを見た諸王は項王に倣ってその土地の元の支配者を追い払って良地を奪っています。加えて、項王の行くところ、滅ぼされない者はなく、天下は恨み、民は親しまず、ただその強さに脅かされているだけです。覇王を名乗っても、人心を失っていますから、弱めることは容易です」

 なるほど、戦場では破格の強さを誇る項羽であっても、付け入る隙はある、というのですね。そして、劉邦には項羽と反対のやり方を勧めます。反対ということは即ち、有能な部下を信任する、天下の城邑を功臣に与える、大義名分を整え、東に帰りたがっている兵士を従え、といったところです。

 また、韓の太尉だった韓信(ややこしいのですが、この度大将に立てられた韓信とは同姓同名の別人です。張良が韓を攻撃した時に見出され、劉邦が関中に入る前から劉邦に従っていました。以後、通例に従い韓王信と書いて区分します)もまた、「項王は将軍たちを中央に近い土地の王にしたのに、漢王だけが遠く離れた地に左遷されています。東方出身の兵士たちが国に帰りたがっているうちに、それを利用すれば天下を争うことができるでしょう」と進言しました。

 部下たちが東方へ戻りたがっていたことをよく示すものですね。

 漢が東方に向かって軍を起こそうとしていた頃に、斉では田一族が項羽体制に立ち向かっていたのでした。項羽にとって脅威になるのは、遠く離れた関中ではなく、至近距離である斉と趙ですから、劉邦にとってはこの上ないタイミングでした。


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2019年04月05日

楚漢戦争 韓信という男6 関中の人々は項羽に降って自分たちだけ生き残った3王を嫌っていることを利用する 侵攻ルートの問題

 既に記した通り、田栄が陳余や彭越と結んで楚に叛いたため、項羽は田栄を攻撃します。田栄は迎え撃ちましたが敗北し、平原に逃げます。しかし、その地の民に殺害されて世を去りました。項羽は城を破壊し、兵士を穴埋めにし、女性は捕虜にします。当然、このようなことをすれば、民の心は離れるばかりです。

 田英の弟の田横は、田英の子の田広を立てて城陽で抵抗を続けました。項羽は斉で戦い続けるしかありませんでした。

 さて、劉邦が項羽に反旗を翻すなら真っ先に障害になるのは、漢中から中原へのルートを扼する関中の3王です。

 その肝心の3王について、韓信はこう主張します。

 「関中は秦の降将の3人が王になっています。降兵20万余りが穴埋めにされたこともあり、関中の人々は彼らを恨んでいるのに、項王が無理やり王にしたため、親しんでおりません。一方、漢王は関中に入った際に民に危害を加えず、過酷な法を廃して法三章を約束しましたから、民は漢王を慕っています。本来、義帝は最初に関中に入った者をその地の王にすると約束していましたから、漢王こそ関中に王となるべきだったと民も思っています。関中を攻撃すればすぐに降伏することでしょう」

 劉邦は韓信の言葉を信じたのか、はたまた当初の計画に従ったのかは不明ですが、漢中を出て関中へ向かいます。項羽により漢中に封じられて半年も経たない前206年8月のことです。

 先に漢中入りの際に通った褒斜道の桟道を焼いたことを記していますね。ということは、他のルートを通った、ということです。

 漢中と関中の間は険阻な山に阻まれ、軍が通れるようなルートは限られています。主要なのは褒斜道、漢水を東に下ってから子午道を通り咸陽を衝くルート、一度西に向かってから故道を通って陳倉に至るルートがあります。

 後の三国時代、諸葛亮が北伐で選んだルートが陳倉道で、魏延が主張したのが長安を一気に衝くことができる子午道です。ルートが重なるのは、そもそも道が少ないから、というのがお分かり頂けるでしょう。


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