2019年03月01日

楚漢戦争 劉邦と張良の出会い1 劉邦は秦軍に敗れて留に戻り、張良と出会う 張良の下邳時代のエピソード

 しかし、そこへ陳勝を破った章邯軍の別働隊が碭へやってきます。劉邦と景駒の将とで迎撃するのですが、敗れて留に戻ります。この敗戦は、劉邦にとって極めて大きな影響を与えるものでした。留の地でブレーンを得たのです。その人物こそ張良です。

 張良は始皇帝暗殺に失敗した後、下邳に身を隠していました。下邳時代逃亡時代の張良にはある逸話があります。

 ある日、張良が散歩中に橋に差し掛かると、貧しい身なりをした老人が履いていた靴をわざと橋から落とし、「若造、取って参れ」と命じます。張良は腹を立てましたが、相手は老人だからと我慢して靴を拾いました。すると、老人は「履かせてくれ」と重ねて要求します。

 張良は乗りかかった船だと老人に靴を履かせました。

 老人は礼を言うでもなく去っていきます。呆れた張良が眺めていると、老人は戻ってきて、「若造、教えてやることがあるので、5日後の早朝にここに参れ」というと、今度こそ去っていきました。張良はひざまずいて「畏まりました」と答えるのが精一杯でした。

 5日後、張良が夜明けに橋へ行くと、老人は既に橋で待っていました。そして、「老人と約束して遅れてくるとは何事か。帰れ」と追い払います。張良が帰ろうとすると、「また5日後の早朝に参れ」と老人は声をかけました。

 また5日経つと、張良は今度はニワトリが泣き始めるくらいの時間に橋へ行きましたが、またもや老人は先に来ていました。そして、同じように5日後に来るよう命じて張良を追い返します。

 更に5日が経過しました。今度は、張良は夜中のうちに橋のたもとまでやってきて、老人を待ちました。流石に今度は張良が早く、老人はやってくると嬉しそうに「こうでなくてはならん」と言うと、懐から巻物を取り出します。そして、「これを学べば王の師となれよう。10年後に興り、13年後にお前は私に合うことだろう。済北の穀城山下の黄色い石こそ、私である」と言って去りました。明るくなってから確かめると、渡されたものは太公望の兵法書でした。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 楚漢戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月02日

楚漢戦争 劉邦と張良の出会い2 張良は陳勝に呼応しようとするが仲間が集まらず、景駒を訪ねようとして劉邦に出会う

 太公望の兵法書を学びながら、張良は任侠とも付き合っていました。そうした人脈が無ければ始皇帝暗殺など図れませんね。人を殺して逃げてきた項伯という人物を匿ったこともあります。

 張良が下邳へやってきて10年が経った頃、陳勝呉広の乱が起こります。もともと反秦である張良は若者を集めて蜂起に加わろうとしますが、100人ほどしか集められませんでした。単独の勢力としてはとても旗揚げなどできません。そこで、近場で有力そうな勢力と見た景駒に合流しようと考えていました。

 留へ移動しようとした張良が巡り会ったのが劉邦の軍勢です。劉邦も景駒の力を借りようとしていましたね。その縁からか、はたまた行き掛けの駄賃と思ったのか、張良は劉邦軍に参加します。

 劉邦の軍勢を思い出してみましょう。その中核は、劉邦の幼馴染や地元のちょっとした富豪、あとは地方都市の下級官吏くらいのものです。そこにエリート教育を受けた大国の遺臣が加わったわけですから、その価値は計り知れないものがあったのでしょう。張良が劉邦に献策すると、劉邦は必ずそれを上策として採用しました。こうなると、張良にも敢えて景駒の下に赴く意義が失われてきます。

 面白いのは、この2人の出会いは劉邦にとっての奇貨となったばかりではないことでしょう。なんとなれば、張良が景駒の下へ行っていた場合、彼は歴史に名を残さないまま歴史に埋もれていたかもしれないからです。

 留で軍を再編した劉邦たちは碭の秦軍を攻め、今度は勝利を挙げます。この時、5、6000の兵が劉邦に降伏しています。

 降伏した兵士も加えて再び豊を攻めますが、まだ落とすことができません。そこで、もっと大きな勢力の力を借りようとします。その相手は、景駒ではありえません。なんとなれば、この頃には既に景駒は敗亡していたからです。



面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 楚漢戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月03日

楚漢戦争 楚における反秦勢力の集結 王を名乗っていた景駒を項梁が滅ぼし、豊の回復に項梁の力を借りた劉邦も項梁の指揮下に入る 

 項梁たちが長江を渡り、北上してきたことは記しましたね。彼は下邳に駐屯しており、そこには英布や蒲将軍が参加しています。はっきり記録はありませんが英布の義理の父である呉芮も居た可能性がありそうです。また、まだ無名だった韓信も項梁の下に身を投じています。

 張良もずっと下邳に居たわけですから、挙兵の動きが遅ければ、あるいは劉邦軍ではなく項梁の軍に参加することになっていたかも知れません。

 この下邳において、項梁は陳勝が敗れ、命を落としていたことを知りました。そして、景駒が反乱を引き継いでいることを知ります。互いに秦に叛くのであれば協力すれば良いのではないかとも思うのですが、項梁は景駒との対決を選びます。

 「張楚王は敗北したとはいえ、その生死も明らかではない中で王を名乗るとは大逆無道である」

 項梁はそう唱えると、項羽と英布に景駒の討伐を命じました。秦嘉は彭城の東方で項梁軍を迎え討ちますが、大敗してしまいます。一度敗退した秦嘉は再び軍を纏めて戦いますが、またも敗れて秦嘉は戦死し、景駒は逃亡にこそ成功したものの間もなく世を去ります。こうして旧楚の勢力は項梁の下に一本化されたのでした。

 しかし、喜んでばかりは居られませんでした。同じ頃、項梁の別働隊が章邯に敗れたため、にわかに秦の脅威が増すことになったのです。項梁は秦に備えて薛に入りました。薛といえば、孟嘗君田文が封じられたところでしたね。斉のあたりです。

 この頃、項梁の兵力は既に10余万人に達していました。

 豊を攻めあぐねている劉邦が頼ったのこそ、この項梁です。劉邦は兵士と将軍を与えられ、ようやく豊を回復します。劉邦を裏切っていた雍歯は趙に逃亡しました。

 劉邦はこうして項梁の指揮下に入ったのでした。



面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 楚漢戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月04日

楚漢戦争 反乱軍の体制整備 范増の策を容れた項梁、楚王の末裔を探し、悲劇の王「懐王」の名を与えて反乱軍をまとめ上げる

 この時点で既に数郡が項梁の下に入っています。領土が広がったことで、支配地をどう纏め、統治していくかという問題が出てきます。そして、その中心となるのは誰で、どのような立場なのか、です。

 項梁に対し、奇計を好む范増という居巣出身の70歳の老人が策を献じます。

 「楚は滅ぼされた6国の中で最も罪が無く、懐王が秦から帰ることができないまま亡くなったことを楚の人々は今も哀れんでいます。だから、『たとえ3戸になろうと、秦を滅ぼすのは楚である』と言われるのです。陳勝が滅んだのは、楚の末裔を王に立てずに自分が王になったからです。いま、周囲の者が続々と貴君を頼ってやってくるのは、楚で代々将軍を務められた家柄の貴君が楚の王を立てると期待してのことです」

 項梁は范増の策を受け、楚王室の末裔を探して神輿に担ぐことにします。見つかったのは、懐王の孫で羊飼いとなっていた心という若者でした。心が本当に懐王の血を引くのか、私には分かりません。単に大義名分にどこの馬の骨とも知れぬ若者を連れてきただけのようにも思えます。

 ともあれ、項梁は心に「懐王」の名を与え、名目としては反乱軍のトップに据えました。。

 楚の懐王といえば、秦の昭襄王に欺かれて秦に囚われ、客死した王でしたね。張儀に欺かれはしたものの、最後の最後は秦の要求を蹴り、身の安全と領土を引き換えるようなことはしませんでした。そのため、悲劇の王として認識されるようになっていたのです。項燕は本来であれば死後に与えられるはずの諡号を心に与え、楚の悲劇の王懐王のネームバリューを利用したのです。また、自身は楚の最後の名将項燕の子と名乗っていましたから、楚王とその将軍という組み合わせで反秦に乗り出した、ということになるわけです。

 6月、陳嬰は上柱国となって5県に封じられ、項梁は武信君となります。上柱国という官職名、有力な臣下の封建に見られるように、旧6国の在り方が復興されていますね。

 反乱軍の体制を整備した項梁は、すぐに反秦の軍事的な動きを再開させます。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 楚漢戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月05日

楚漢戦争 斉の事情と項梁の進撃 県令を斬って自立した田儋は章邯に敗北して滅ぶ 項梁は章邯を破って西へ進み、定陶を囲む

 この頃、下邳から北の斉でも秦から独立を図る動きがありました。

 斉の独立化は、陳勝呉広の乱が起こった頃に遡ります。斉の王族に連なる田儋が、県令を殺して自立し、斉王を名乗ったのです。陳勝は斉を平定するために周市を派遣していましたが、田儋は周市も破り、斉に勢力を確立していました。

 また、魏では周市によって魏王室に連なる魏咎が立てられています。

 7月、陳勝を攻め滅ぼした章邯は、北に向かって魏に攻撃をしかけました。斉の田儋は援軍に赴くものの大敗し、田儋と魏の宰相になっていた周市は戦死してしまいます。魏咎は逃げたのですが、追い詰められると民を巻き込まないよう降伏交渉を行い、交渉が成立すると焼身自殺を遂げました。この時、魏咎の弟の魏豹は逃れ、楚に投じています。

 田儋の従弟の田栄は東阿に逃げました。

 この章邯軍が反乱軍にとってはとても大きな脅威となっていました。項梁は東阿を助けて秦軍を攻撃、章邯を敗走させます。これにより、斉は余裕を取り戻します。この間に斉王建の弟の田仮が王になるのですが、田栄は認めず、田儋の子の田市を擁立しました。田栄に敗北した田仮は楚に逃亡します。

 反乱の真っ只中というのに早速一族で揉めているわけですから、始皇帝が郡県制を採用したのは間違っていなかったように思えてきますね。

 項梁たちは斉を助けて北に秦を破り、逃げる秦を追い、更に濮陽の東でも勝利します。ただ、秦軍は濮陽城に入ると、堀を巡らせて防御を固めたため、城を落とすことはできませんでした。

 そこで楚軍は定陶を囲みます。そして、軍を二手に分け、項梁が定陶を囲む一方、項羽と劉邦たちは西方へ向かいます。

 項羽と劉邦と並べて書いていますが、この時点では項羽が反乱軍の中核に居たのに対し、劉邦は諸将の1人に過ぎないわけで、同格ではなかったことは記憶しておいて良いかも知れません。

 8月、西進した楚軍は三川に至り、塞丘で李由を捕らえて斬ります。李由は秦の宰相李斯の長子でしたね。この頃は父の李斯は既に獄に繋がれ、秦王朝は機能していなかったため、李由はバックアップなど望めない状態だったのでしょう。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 00:24| Comment(0) | 楚漢戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村